「息を吸う。冬の冷たい空気が肺に入る。それを吐き出す。透明だった空気が白く色づく。綺麗な白だ。知らない少女みたいな、白だ。」

 四両編成の電車しか止まらない、小さな駅から徒歩二十分、そこに僕たちの家はあった。そこは僕の生きるべき場所だった。その日も、実感のない一日の記憶と会社の書類を鞄に詰め込んで、早足で帰路に向かう。途中で、沈んでくる夕陽が、いつものように怖くなったので、さらに急いだ。
 赤く錆びた階段に軋む音を響かせながら、アパートの二階に登り、一番奥にある扉を目指す。サロメはせめて夕陽が差し込む部屋がいいと言った。僕は階段を登るのが大嫌いだったけれど、サロメのためにその角部屋に決めた。けれど、住んでみると、窓の向こうにある一軒家に光が遮られて、ここはいつも真っ暗だった。サロメはそのことで悲しんだりはしなかった。ただ、小さな窓から見えるその一軒家を、透かすように眺めていることが多かった。僕は、その一軒家の家族仲があまり良くなくて助かったと、どこか申し訳なさを感じながらため息をついた。
 一つしか鍵のついていないキーホルダーをポケットから取り出して、扉を開ける。途端に、春風のような甘い匂いが吹き出してきた。何事かと思って、暗い部屋を見渡す。台所に、首を切られた鶏が置いてあった。ように見えたが、近づいてみると、それはケーキの残骸だということがわかった。目が暗さに慣れてくると、壁や床一面に、ぐちゃりと返り血のように、生クリームや果物の切れ端が散らばっているのが分かった。どうしたらここまでメチャクチャにできるのだろうといった惨状だったが、犯人は一人しかいなかった。そして、僕たちの家に、人が隠れられるスペースなんて本当に限られている。
 僕はすぐに、あまり使われていないクローゼットを開けた。案の定、白いダボッとしたパーカーを着たサロメが、あふれんばかりの調理器具たちを抱えて、踵立ちで苦しそうに立っていた。お互いの目があい、サロメだけが気まずげに目を左右に動かした後、「もう限界ですわ!!」と嬌声をあげてこちらに倒れてきた。     
 僕は反射的にサロメを抱き抱えるようにして受け止めた。紫色の縦ロール、それのふわりとした感触が先ず来て、次に型抜きをしたような華奢な体が僕に当たる。……その時初めて、今日初めて、僕は自分の生きるべき場所に帰ってきたと感じた。僕は、人生で初めて生きる資格を与えられたような気がしたあの日の出会いを、香る上品な花束のような甘い匂いで思い出した。ずっと変わらない、サロメの、僕の大好きな匂い。サロメに会うと、何度だって改めて焦がれ直して、愛おしくて、切なくなる。
「ただいま」
 僕の気持ちを表す言葉になりますようにと、祈りを込めて、優しくサロメに微笑んだ。
「お、おかえり!ですわ」
 サロメは、相変わらずイタズラがバレた子供のような顔をして、目を合わせてくれない。何も伝わっていないのかと少し悲しくなった時、サロメの視線の先にあるものが、きらりと光った。先ほど僕に抱き抱えられた拍子に床に散らばってしまった、サロメが抱えていた調理器具だ。どうやらナイフが僅かな光を反射して光ったようだった。……ナイフ?僕はサロメの顔を見た。もしこのナイフが僕の方に刃先を向けていたら……。
 サロメは目をギュッと瞑って現実逃避を図っていた。それは美しい梅干しのようで、そんなものは存在しなくて、僕はハハッと笑って頬にキスをした。
 
「ハッピバースデートゥーユー  ですわ!ハッピバースデートゥーユー  ですわ!」
 自分なりの盛り上げを加えたバースデーソングを少しずれた音程で歌いながら、サロメは机にケーキを運んでくる。蝋燭に炎が点っている分、むしろ普段より明るかったが、夕方のお茶目っぷりを見ると、僕はサロメがいつ転ぶか不安になって、ケーキどころじゃなかった。
 僕は最初から怒るつもりなんて一切なかったのだが、一通り言い訳と謝罪を済ませた後に、上目遣いで「でも……どうしても、貴方の誕生日を祝いたくて……」と潤んだ声色で媚びられては、成す術がなかった。自分でもすっかり忘れていた誕生日だったが、僕はサロメのケーキが完成するのを待ち(何回も手伝おうとしたが猛烈な反抗によって追い出された。リビングから見えた台所に立つサロメはとても危なっかしかったが、その直向きさが自分のために尽くされていると思うと二重の意味で堪らなかった)、すっかり深夜になってしまっていた。
 机は決して小さなわけではなかったが、サロメが作った大きなケーキが載せられると皿を置く隙もなかった。
「二人で食べられるの?」
 と僕が苦笑しながら聞くと
「当たり前ですわ!あ、食いしん坊って思いましたこと?違いますわよ!今日は買い出しなど忙しかったので、何も食べてなくてお腹が空いてるだけですわよ!」
 サロメは一人で勝手に盛り上がっていた。
「いいから!早く炎を吹き消してください!」
サロメは叫んだ。このアパートの壁は薄くないはずだが、後日クレームが来たらどうしようと思った。まぁ、そんなことどうだっていいか。誕生日の炎を消すなら、何か願いを考えなくてはいけない……。
 僕はふーっと、炎を吹き消した。炎は少し揺れて、やがて諦めたかのように倒れた。唯一の光源を失った部屋は、再び真っ暗になる。つい一瞬前までは見えていたサロメと、伸びていた彼女の影は、示し合わせたかのように消えてしまった。しかし、僕にはサロメが実際には一歩も動いていないことがわかっていた。甘い匂いがするのだ。サロメの甘い匂いは変わらずにここに居続けてくれているのだ。僕はそれを頼りに、暗闇の中、サロメの元へ向かう。サロメを抱きしめるつもりで手を伸ばすと、本当にサロメを抱きしめることができた。それがとても嬉しかった。
「どうしましょう、こんなに真っ暗だと、ケーキが食べられませんわね」
「そうだね……」
「それに、二人で動いたらどこかに体をぶつけてしまいそうですわ」
「うん」
 僕は自分の言葉がサロメの綿あめみたいにふわふわな髪の毛を揺らしていることを感じていた。
 サロメは、はぁ、と、小さく息をついてこう言った。
「じゃぁ、もうこうしたまま寝るしかありませんわね」
 サロメは僕の胸を強く抱き返して、壁に体を擦り付けるようにして横になった。その動作は驚くほど正確で、もしかしたらサロメも僕と同じように、僕の匂いのようなものを感じ取ってくれているのかもしれない。
「ちょっと、窮屈ですわね」
 と、僕の胸に頭を埋めかせているサロメが言った。
 確かに多色窮屈だったけれど、今はその窮屈さが僕とサロメを一時的に一つにしてくれているような気がした。心だけでなく、体さえを。太陽も月も、あらゆる光が届かないこの部屋は、僕たちに、いや僕にとってはある意味楽園なのかもしれなかった。
 完全に音が消えて、お互いの脈動を感じられ始めるようになった頃、サロメは独り言のように呟いた。いや、実際に独り言のつもりだったのかもしれない。
「なんて、お願いしたんですの……?」
 僕は迷った。とても迷った。願いなんて最初から決まっていた。迷うまでもなかった。それはサロメにも分かっていたはずだった。だから、サロメがわざわざその質問をする意味がわからなかった。というか、サロメは初詣でも、「人に教えてしまっては叶わない願いもあるんですわー!」と言う人間だった。どうして今日、僕が寝静まったタイミングを見計らって、そんな質問をしたのだろう。その意味はなんなのだろう。僕はひたすら困惑して、そしたら段々と眠くなってきて、誘われるように眠りに落ちていってしまった……。
 しかし、僕は再び、朝になる前に目を覚ました。窓から見える景色はまだ青く、それは夜の色だった。サロメが買ってきたぬいぐるみが、棚から落ちていた。サロメの部屋の扉が、半開きになっていた。時計を見ると、三時二十分と示されていた。天井の木目が、かつての同級生に似ている気がした。名前は思い出せなかった。代わりに、昨日の仕事の失敗を夢で見たことを思い出した。サロメの姿が、無かった。

 ガチャン、と玄関の扉を開けた。冬の空気が、痛いほど僕を包んだ。サロメはちゃんとマフラーや手袋をつけていったのか心配になり、一回部屋に戻った。案の定、彼女のものはそのまま玄関の棚に入ったままだったので、それらを持って再び扉を開けた。冬の空気はもう痛くなかった。その代わり、大きな満月が浮かんでいることに気がついた。月を見るのなんて、いつぶりだろう。夜風が吹くと、微かに、あの甘い匂いがした。青白い月明かり、淡く粒子を浮かばせる電灯、全ての光を浴びるかのように、優雅なお嬢様が道路の真ん中に立っていた。僕は泣きそうな声でその名前を呼んだ。
「サロメ……」
 サロメはこちらをゆっくりと見た。赤いドレスも、白鳥のような化粧も、やっぱりとても似合っていた。それがこんなにも悲しい。

 僕らは手を繋ぎながら、夜道を歩いていた。手袋は必要なさそうだったので、マフラーだけはつけてもらった。このマフラーは去年のクリスマスに僕がプレゼントしたものだったが、こんな安物だとやはり今のサロメにはとても浮いて見えた。僕は過去の自分を恥ずかしく思う。サロメはとても喜んでくれたように思っていたが、ずっと、こんなもの着たくなかったのかもしれない。
「どうしたの、そのドレス」
 今の僕らの足音のように、トボトボと尋ねる。
「新しい仕事の人が、くれたんですわ」
 サロメは目を合わせてくれない。新しい仕事、それはなんなのだろう。僕は、サロメのことを何も知らなかった。
 僕は何も言えなくなって、せめてこんなに情けない顔をしているのを見られたくなくて、下ばかり見ていた。夜の排水溝は案外ロマンチックな気もしてきた。
 分かれ道に着いた。僕はいつもここを左に曲がって駅に行く。カーブミラーが光っていた。      
 サロメは足を止める。僕の手を握る力が心なしか強くなり、思わずサロメの横顔を見ると、その瞳は表面張力のように揺れていた。力強い瞳だった。僕らが会った時には決して見ることのなかった瞳だ。あの、「生きるべき場所が見つからない」と言っていた少女は、もうどこにもいなかった。僕は焦った。サロメは何かを言おうとしている。そして、その結果、きっと何かが失われてしまう。ここで、終わってしまう。嫌だ。そんなの嫌だ。やっと見つけたんだ、僕の生きるべき場所。ねえ、サロメ。僕は「ずっと、君の側にいたい」そう炎に願ったんだよ。僕の命を毎年燃やしていく炎に、あの光に、僕はそれだけをただ願ったんだ。
 ……でも、そんな僕の気持ちとは関係なしに、いや、強くなったサロメはそれを全部分かっていたのかもしれない、とにかく、サロメは口を開いた。赤く、ふっくらとした唇だ。
「私、あなたと出会った時は、自分が人生で一番不幸だと思っていましたわ。この喋り方も、髪の毛も、人格も、なんだか間違っている気がしていました。生きるべき場所が見つからなくて、生まれてこなければよかった、なんて考えたりもしましたわ」
 やめてくれ、と僕は思った。実際に、ここで彼女の口を塞いでしまおうかとも思った。家に帰って、また、二人で眠ってしまえば、きっと全てが元通りになる。そんな夢を見たかった。        
 でも、結局、それは出来なかった。言葉を紡ぐサロメの肩が、震えているのが見えたからだ。甘い匂いは、僕の脳を揺らしてしまうくらい、未だに激しく香っている。今、僕に何かを伝えようとしている少女は、サロメだ。僕の愛しているサロメなのだ。たとえ全てが変わったとしても、知らない少女なんかじゃない。
「けれど、貴方と暮らしているうちに、気づいたんですの。私、笑顔が好きですわ。笑っている人をみるのが、好きですわ。たくさんの人に、幸せになってほしい。光を見てほしいんですの。私が、貴方に救われたみたいに!」
 サロメは僕のことを光だと言った。僕は、ならばサロメは僕の笑顔だけじゃ足りないのだろうかと思った。僕だけとずっと側にいてはくれないのかと、怒りさえ感じた。けれど、だめに決まっていることに気づいて、笑ってしまった。だって、僕の目の前で、踊るように生きているこの少女は……世界を壊してしまうくらいに美しい!!弱かった少女は、強くなって、強くなって、僕以外の希望にだってなれる!
 サロメは続けた。
「今、人を笑顔にするお仕事をしています。まだまだ未熟ですけれど、優しい人たちが仲間で、友達もできて、私自身が、すごく幸せです。だから……だからね……」
 サロメの声は段々小さく震えていき、僕は彼女が泣いていることに気づいた。僕は……最後に、サロメに言いたいことがある。
 僕は、サロメを温めるように抱きしめた。
「ドレス、似合っている。本物のお嬢様みたいだ」
 サロメは泣いたまま目を逸らさない。本当に強い人だ。
「出会った時に君が言っていたけれど、人にはみんな、生きるべき場所がある。ある人にとっては日向で、ある人にとっては日陰で、そんなのどこかもわからないし、いつ見つかるかもわからない。とても不安だ。……だからこそ、それを見つけられた時、運命を信じられるんだ。僕はずっと、自分が根無し草みたいだった。君と出会えてからなんだ。僕の本当の人生が始まったのは。あの狭い部屋で過ごす毎日は、本当に楽しかったよ」
 僕は大きく息を吸い込んだ。冬の夜空の全ての星を取り込んで、この言葉を輝かせよう。
「……だから!君が君の生きるべき場所を見つけられて、とても嬉しい。君はそうやって、僕みたいに、暗闇の中にいる人に、光を当ててあげてほしい。君にならそれができる。僕には分かるんだ」
 自分がちゃんと笑えているか、泣いているかさえもうわからない。吐く息が白かった。冬は素敵だ。生きるべきではない星にいる僕の息でさえ、白く、美しく色づかせてくれる。そうだ、僕は冬のような君が好きだったのだ。
「これで、さよならだね。贅沢させてあげられなくてごめん、今までありがとう」
 僕はサロメのことをそっと抱きしめ直す。変わらない、甘い匂いが漂っている。細く、今にも折れてしまいそうな体には人類の光が詰まっている。あぁ、冬のような少女よ。僕は生きるべきではない場所に行く。君は生きるべき場所に行く。ありがとう、お互いにそこで生きていこう。
 サロメは泣いていた。吐く息が白かった。僕はその色を知っているし、知らなかった。

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