ファーストメモリー


「〜〜〜🎶」
「なんだっけそれ、あー聞いたことあるんだけどなぁ」
「え!コウくんもあるの?りりむも忘れちゃってさ、なんか、なんとなくは覚えてるんだけど」
「いやうーん、微妙かも」
「えー…ふぁ、ふぁ、ふぁーなんちゃら」
「あー、ファーストキスは……の味〜のcmのやつだ!!!」
「あそれ!!それなの!!!すごいコウくん!すごい!」
「まぁこんなもんすよ…でも肝心の何の味なんだっけ…気になるなぁ、りりむちゃん思い出せる??」
「えー、無理無理〜わかんないよ、だってりりむうろ覚え悪いし、あはは」
「それを言うなら物覚えな」
「……」
「だまるのやめて」
「ごえんごえん」


コウくんがいないと、本当に何もわからないの。


とんとんとんと、3年前から変わらないリズムで歩く音がする。秒針の音と私のうざったい寝息たちが奏でていた鬱屈なリズムに突然讃美歌が混ざり、私の六畳間の世界は混乱と安寧を共に手にする。
2回のノックの音の後に、ぎしぃと扉の音がした。

「りりむちゃん、寝てる?」と、よそ行きな優しい声だ。
少しだけ、意地悪をしてみる。
「………」
コウくんはちょっと困ったように立ち止まって、それからキマリ悪そうに部屋の中央に座り込んだ。時々ちらりとこちらを見るので、少し肩を露出させる。大切なのは少しだけ。彼が好きな具合を過ぎず、適切に。でも、そうしたら彼は暫くチラチラした後急に見なくなってしまって、紳士だなぁと私は残念がった。
このまま寝たふりを決め込んでいれば気迷った彼が乱暴に私の唇を奪うなんてことは誠に残念ながら、起こらないのだ。

「…2回のノックはトイレのだよ。学校行ってるのに知らないんだね」
「起きてたんだ…」
上半身だけ持ち上げると意識は覚醒していたのに節々に痛みを感じて、肉体というのは本当に煩わしいと思う。そんなものが自分そのものだとは信じたくはなくて、ベッドを降りて彼の隣に体格座りでくっつきにいく。近ければ近いほど、コウくんを感じれば感じるほど、温かい安心感を手に入れられる。
「ちょ、近いよ」
「寒いから、後ちょっとだけ」
…ね、こう言えばコウくんは赤い顔しながら黙ってそこにいてくれる。優しいところも何も変わっていない。多少私より彼の方が大きくなったって、コウくんは3年前と同じ,変わらないよ。それはきっと私もそう…どれだけ大きくなろうが、私たちはきっと同じでいられる。


でも、後ちょっとだけってどのくらいなの?


「今日は〜、学校のプリントなんかじゃなくて、りりむちゃんにプレゼントがあってきました!!」
コウくんの大声は外の怖い人たちの耳障りなものとは全然違う。私一人に向けられたものだってきちんとわかる。心に届く真っ直ぐな声だ。
ガサゴソと袋を漁って出したのはでっかいホールケーキ。
「おめでとう!13歳の誕生日!」
「…わぁ!すごい!おっきいケーキ!覚えててくれたんだありがとー!!」
私はすごく喜んだ…ようにした。それは喜ぶべきだってことが私にだってわかったからだ。まだ学生の彼に、こんなケーキはなかなか買えない。きっと部屋に篭って変わらない日常を過ごしている私のために、頑張って貯金して買ってくれたのだろう。そうして私のことを想ってくれた時間があることは、確かに嬉しかった。でも同時に、すごく苦しかった。


コウくんにとっては私が歳をとることはおめでたいことなの?何を祝うの?



「電気は…元々消えてるか。ちょっと火借りてくるね。」
トントントンと変わらないリズムで、でもちょっと浮かれたような、そんな足音が階下に向かって行って、また戻ってきた。暗い部屋に3つのピンクの蝋燭の炎が灯る。あまりに眩し過ぎて、私はそれに終わりを予感してしまう。だって、この瞬間で終われることはどんな結末よりも永遠で、綺麗だろうから。

「ハッピバースデートューユー
ハッピバースデートューユー
ほら、りりむちゃんも歌って…え?歌詞わかんない?そんなの適当でいいんだよこういうのは、ほら!せーの!」

「ハッピバースデートューユー
ハッピバースデートューユー」

彼の優しく、慈しむような顔が左右に揺らめく。私の拙い英語を、彼は決して笑わない。それはとても美しい心と体で、見ているとコウくんが初めて制服を着た時を思い出す。とても美しいのになんだか期待はずれのようでもあって、私はすごく寂しくなったんだっけ…。多分、私は置いていかれた気がしたんだ。制服なんて似合わなかった、いや似合いたくすらなかった私よりもコウくんはずっと先に行ってしまって…。あれ?こんな童話あったよね。

「ほら、りりむちゃん吹いて!いやいやもっと勢いよくしなくちゃダメだって。あ、願い事言った?うわー!ミスった!1番のサビなのに!やり直す?いやいやめんどいよな…いやでも…。じゃ!3秒ルールでいこ!ほら!今早く行って!願い事だよ」

「え、願い事?そんな急に言われても…えー…」

外に出れるようになりますように?
優しくて美人な大人になれますように?
健康祈願?

違う。違うよ。私が本当に欲しいのは…本当なのは…

「証、がもらえますように」
「え、泣いてる…?」

コウくんは心底心配そうに私の顔を覗き込む。私はコウくんの笑顔と同じくらいその顔が好きだったから、つくづく嫌な性格だと思う。それかコウくんは私を元気にしてくれる魔法使いだったのかな?

「ねぇコウくん。りりむ、証が欲しい」
「証?」
「いくらりりむが頑張ったって時は止まんないし、そもそも頑張れないし、コウくんにはこの先もりりむなんか置いて幸せになって欲しいから。でもりりむはやっぱり1人じゃ何もできないままだし、だからコウくんの存在をりりむに刻んで欲しいの。コウくんが大人になっても、りりむを忘れちゃったとしても、りりむだけは絶対に忘れないくらい強い証が欲しいの。」

「何言ってるかわかんない…って」

「コウくん、大好きだよ」

私はコウくんによりかかる。それだけで簡単にコウくんは倒れ込み、私が被さる形となった。コウくんは魔法使いじゃなくて心そのものだったんだ。こんなに大きいのにこんなに軽い。

息と息が混ざり合うのを感じる。彼の飴玉みたいな瞳の中に私が見えた。自分までコウくんになれたような気がして勘違いでも心地よかった。このままどこまでも一緒になろうよ。私にはコウくんが必要だし、コウくんには私が必要だった。思い出さなくていいよ。思い出さなくていいから…連れて行って。壊れてしまってもいいよ。

「りりむちゃん…だめだよ」
「どうしてダメなの、何がダメなの、コウくんも気持ちいいよくなれるんだよ…。それともりりむのこと嫌いなの?」

「そうじゃなくて…!」

「りりむに任せてよ。こういうの得意な気がするんだ。全部上手くいくよ。コウくんとなら」


ねぇコウくん、ファーストキスってどんな味かな。私ずっと気になってて、忘れられないんだよ。



コウくんの唇に私のそれが重なる間際、消えていたはずの炎が一瞬再び燃え上がった。そんな有り得ない現象が起きたのに、私の思考はそんなことを考えることもなく暇なく、ただ一点を見つめていた。


照らされたケーキの絵柄には見慣れたピンクのぬいぐるみが描かれていた。すぐに暗闇へと戻ったけれど、残像が鮮明に残って離れなかった。
数秒後、ハッとして彼の方を振り向くとそこにはもう、彼の笑顔も心配顔もなく、ただ泣きそうな顔があるだけで。

あれ?私はこんなことをしたかったんだっけ?


私はその場に崩れこみ、そして自分の醜悪さに気づいて彼のそばを離れてベッドに潜った。もう、認めるしかなかった。変わったのは私だ。あったはずの尊さがなくなることにただ怯えて、私はそれを自ら奪い去ってしまった。そんなことにすら気付けずに、私は彼を傷つけてしまった。最初から無ければ、コウくんに出会わなければ、こんなこともなかったのに。私が美しいと思っていたもの全てが間違いで…ただコウくんだけが心に残る。それすらも間違いなのだろう。

「りりむちゃん」
ベッドが軋む音がした。
「何も言わなくていいよ、りりむちゃんが考えていることなんて大体わかるから。もう流石に」
コウくんの手が足のすぐ横をさすっている。
「俺もさっきはびっくりしちゃっただけでさ…ほんとは嫌とかそういうのじゃ無いんだ。全然。りりむちゃんのことは大好きだしむしろあり…って感じだけど…」
その先の言葉を言ってほしくなかった。でも同じだった。私にもわかってしまう。彼がなにを考えているかなんて。でもそれがもし本当だったら、私はこんな顔彼に見せられない。
「なんか俺ららしく無いじゃん!肉欲とかそういうの、入れたく無いよ。俺は…」
私は泣いてしまった。ずっと辛かったのに泣くことだけができなかった人生のツケを返すように、濡らしているものが枕から温かい胸に変わっていることに気付けないほどに。

「同じだよりりむちゃん。俺も嫌だよ。歳取るのなんて。っていうかそんなのどうでも良かったんだ…ただ、りりむちゃんとなんかそれっぽいことやって、楽しみたかっただけ。俺は知ってるよ。りりむちゃんが本当は誰よりも考えている娘なんだって。すごい賢いんだって。言葉なんか知らなくなって、関係ないって思わせてくれるくらいに。だからさ…たまにはさ、俺が来てる時くらいは全部忘れて欲しい。俺もりりむちゃんが楽になる努力はするからさ。今を楽しもうよ。未来も過去も全部忘れて。たまには、りりむちゃんにだって許されていいだろ…」

コウくんは優しく、そして実体のない何かに吐き捨てるかのように語った。全部矛盾だらけのその魂に、私は祈りのようなものを抱いてしまう。

「…じゃぁ、願い事していい?」
「いいよ、お姫様」
「抱きしめて、もっと強く」
「こう?」
「もっと」
「こう??」
「もっと!!!」
「卯月コウ!!!」
「あはは」

2人は笑った。笑いながら泣いた。全ての嫌なことを流し去るかのように。2人の傷を埋めるかのように。

私は思う。ファーストキスの味がレモンだろうとピーチだろうとカレー味だろうと、そんなものはもうどうだっていいのだ。だって初恋はこんなにも、優しい味がするのだから。

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