卒業

まだ、帰りたくないね
 
 そう言い出したのはどちらからだったか、もう覚えていません。

 ただ、斜陽が注ぎ込む教室は、空気に溶け切れなかった光の粒が溢れ出してゆらゆら揺蕩っていて、毎日居る場所なのにどこか夢のようにまどろんでいました。
 
 もう人気者の彼も、しっかり者のあの娘もいないのに、誰に言われずともやはり私たちは教室の隅にいます。

 向かい合った机は5cmほど離れていて、風に煽られたカーテンが時々君の煌めいた髪に触れそうになりますが、いつもあと一歩のところで届きません。
 
 君に言いたいことがたくさんあったはずなのに、なんだか上手く思い付きません。

 落ち着きのない私の足が君のそれと触れました。微かに聞こえる波の音は、私の鼓動を隠すには頼りないようでした。

海でも、いく?
 
 窓の外を見出した君の横顔が照らされて、ぷっくらと、ごつごつとしたニキビが見えました。月のクレーターのようで美しいです。




 

 海なんて教室の等間隔に区切られた窓から見える、退屈な私の象徴だったはずなのに、そんなことも君と来るとすぐに忘れてしまいました。

海、思ったよりも青くないね

 私はもう、到底我慢できなくなりそうでした。君が愛おしくて、たまらなかったのです。
 
 嫌でした。簡単に卒業を祝える人たちが。嫌でした。卒業は、きっと永遠の別れなのです。

 嫌でした。そんなつまらない感傷を抱えてしまう、私自身が。

 でも、君が居ました。君は最初から、何も諦めていませんでした。
 
 君の瞳に映る景色を見たいのです。
 
 そこでは海は青いし、この町からも世界一暗い星だって見つけられて、友情もきっと、もっと、絶対的です。


 

 17時のチャイムが鳴りました。

そろそろ、帰ろっか

 言えばいい。

 まだ、いや、永遠に、一緒にいて、と。

 一言そういえば、君は付き合ってくれるはずです。そうに違いない。醜い私にも、君はずっと、優しかった。だから私は、醜い、どろどろの私はそれに付け込んで…!






卒業、おめでとう

そちらこそ

 君は円を描くように顔を動かして笑いかけ、そしてくるりと回って去っていきました。

 言えませんでした。言えるわけがありませんでした。君をこれ以上、私なんかに付き合わせられるはずがなかった。

 

 自分の肌が腐っていくのを感じるのです。ぶくぶくと太り、制服のボタンが下から飛んでいくのです。
 
 目が霞んでいくのです。近視用の眼鏡を買わなきゃなと暢気に思います。

 これが君が居なくなったあとの私の末路だよと、あてつけで君に見せてやりたくなります。

 頬を冷たい感触が走ります。雨が降ってきたのか、雨ならば濡れなくてはと、私は海に飛び込みました。

 これが私にとっての、大人になるということでした。

 最期まで見えたのは結局、おぼろげで、でこぼこで、ぷっくらとした月だけでした。 

 


 青春という文字は青い春と書きますが、正直僕の学校生活はそんな感じはしません。青い海に友達と飛びこんだ記憶も、青い空を恋人と見上げた記憶もないです。
 これは決して特別なことではなくて、そんな人はきっと多いのだと思います。
 真っ黒の部屋でスマホ片手に推し活動をした人だって、部活帰りの電車でえんじ色のバッグを抱えている人だって、青春なのです。
 そんなことを考えて、短編を書きました。
 大人になっても、皆が自分の色を信じられるように祈っています。

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