シン・エヴァンゲリオン雑感

めっちゃネタバレです。


こんなの求めてなかった。

今日初めてシン・エヴァンゲリオン劇場版:||を見てなんとも言えない気持ちになったので書きなぐりました、また何回か見たら感想は変わるかもしれないけどとりあえず今の気持ちです。

 私が、2011年8月の金曜ロードショーで何気なく見てどハマりしてもう10年待ち続けた映画の終わりがこんな普遍的な終わり方で終わるとは思いもしなかった。

 初めはその冒頭の、炭素の作る結晶構造のような使徒の見た目と音に目を奪われて見始めた。そして旧劇場版、TV番をみてその独自性や救いのなさ(見方によっては救われているかもしれないが)に取り憑かれた。

 それが今回はどうだろうか。勿論何年も待たせただけの事はあってとても画は綺麗だったし映像としては素晴らしいものだったと思う。しかし、私が求めていた独自性、陰鬱さ、何よりエヴァらしさが感じられなかった。普遍的なアニメだった。既視感があった。誤解を恐れずに言えばやたらと難解な言葉を使った魔法少女まどかマギカだった。

 よくわからない新しい設定をいっぱい作りだしてなんだかんだあってだいたい全部なかったことになりましたよ、ってご都合主義が過ぎるだろ。これなら旧劇場版のラストの方がいいよ。あれを越えるみたいなもくてきじゃなかったのかよ。

 私は悲しいよ。その辺の漫画にありがちな最終話で無理やりカップリングさせて終わるやり方をエヴァでやるなんて。それもポッと出のマリなんかに。アスカかレイならまだ許せたよ。でもマリって、ブリーチの最終話ぐらいゆるせない。織姫もそんなあれだろ、画力の問題もあるけども。

 多分私が見たかたったエヴァンゲリオンはもう庵野監督には作ることが出来ないんだろう。そりゃこんだけ何年も作るのにかかってるわけだし、人間の思考やら精神状態なんて常に移り変わるものだ。昔より監督の精神が安定してるんだろう。1人の人生としてはそっちの方が良いだろうが視聴者としては昔のままでいて欲しかった。

   昔の碇シンジは物語のシンジとしてシンジだった。しかし新劇場版はシンジとしてのシンジではなく監督の自己投影の写像いでしか無かった。


さよならエヴァンゲリオンは映画が観客に向けた言葉でも、観客が映画に向けた言葉でも、シンジの、アスカの、ミサトさんの言葉でもなく、庵野監督からエヴァンゲリオンシリーズに向けた言葉だったように感じる。


誰よりもエヴァの呪縛に囚われていたのは監督本人だったのだろう。


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