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物事を正しく見る(正見)

自己中心的ではダメだ。
人のために行動しなさい。
このようなことを常識として刷り込まれてきた方は多いのではないでしょうか。

自己中心的な生き方を悪とし、人のために生きることを善とする。
それが絶対に正しい、間違いのないことだと思っている方も多いのではないでしょうか。

私はここで自己中心的な生き方はやめなさいと書いてきましたが、自己中心的な生き方を裁いているわけではありません。

その生き方は自分を含め一切のものが不幸にしかならないのに、どんな意味があるのですか?
と言っているんです。

そもそも人間は自己中心的な生き方しか出来ません。
どんなに良い人に見えても一番優先するのは自分の事なんです。

それを悪とするなら人間の存在そのものが悪となり、人間のいる意味がなくなります。

またどんなに人のために行動しても、その動機には必ず自分が何かを得ようとすることが隠れています。

お金、名誉、評価、その他自己を満足させる何かがあるはずです。
エゴというのは非常に狡猾で、巧みに本音を隠し、綺麗なものに置き換えます。

自分のためを人のために置き換えることなど朝飯前です。
一人で気付くのは容易ではありません。
私も師匠の教えがなかったら気付けなかったと思います。

もう一度言いますが、自己中心的な生き方、考え方は悪ではありません。
エゴが強いのも、人のことを蔑ろにするのも悪ではありません。
その生き方しか出来ないから仕方ないんです。

ただその生き方では永遠に喜びはないから、それらを認め、向き合っていくしかないんです。

自己中心的な自分、エゴが強い自分、人を蔑ろにする自分、心が汚い自分。
などなど認めたくないものが必ずあります。
それらを少しずつでも受け入れていくことです。

それが師匠がいう『ただ見ること』『それとともにあること』であり、また日月神示で言われる『悪を抱き参らせる』ことです。

イスラム教ではこれを内なる戦い、聖戦(ジハード)と言うそうですね。
私はこれを現在も続けています。

続けると心が静かになってきて、心が勝手に動かなくなってきます。
同時に智慧がわいてきて考えずとも物事の意味がわかるようになってきます。

神が生み出したものに悪はありません。
何かを悪だと裁く心がないはずの悪を生み出すんです。

以下は古い教えになりますが師匠が煩悩について教えてくれた時のお話と日月神示の一文です。

【師匠の教え】
煩悩は無明から光明へあなたを運ぶ乗り物です。
そのまま全ての煩悩は浄土です。
煩悩くらいありがたいものはないのです。

無明から煩悩が生まれ、煩悩は何時かは悟りを求めるのです。
言い換えると煩悩が煩悩を消滅させる働きをするということです。
煩悩がなければ我々は永遠に無明のままなのです。

煩悩を無明から光明へ我々を運んでくれる乗り物だと知り、煩悩に感謝し認めなさい。
煩悩に感謝出来れば心は静まるでしょう。

我々に必要なことは一つです。
何が良いだの何が悪いだのと現れる思いに囚われウロウロせず、ただこの今にくつろぎなさい。

心に何が浮かんでも捨てておきなさい。
起こることは起こるに任せ捨てておきなさい。

勝手にさせておきなさい。
それだけ出来れば後は何もいりません。

何にも依存することなく、ありのままに存在するそれ。
有無を超えて自ら存在を意識し、それを継続しているそれ自らは何も行うことなく全てを生み出しているそれ。
一度得たら永遠に失うことのないそれ。

このそれの自覚がああでもないこうでもないとウロウロするから失われ続けているのです。

何かを認められない、だから何かをする、それが煩悩です。
認められないことから、煩悩は現れるのです。
煩悩を認められない限りあなた方は知らず知らず煩悩をなくそうとする。
煩悩をなくそうとすることが煩悩なのです。

智慧により煩悩とは何かを知ることが煩悩を認めさせ、今の現状に満足し、くつろぐことが出来るのです。
正しく物事を見ることこそが必要なのです。

煩悩を認められず煩悩をなくそうということは、それが煩悩だから無限のループなのです。

今を認められず何かをすることが煩悩だからです。
何かをするということは、求めるということなのです。

生きること自体何かをすると言うものだから、生きているというエゴも捨てることが必要です。

私は何かをするなと言い、またエゴを捨てろと言います。
私がエゴを捨てろと言った時、エゴと戦え言ったのではないのです。

正しく物を見なさいと言ったのです。
正しくものを見ることが出来ればそれだけでよいのです。

光明が現われれば無明は消えます。
暗闇で明かりをつけると暗闇はなくなります。
無明から現われるものも自ずとなくなるのです。

我々は悟りを何時か得るものと考えている。
愛欲と怒りと愚かさを離れて悟りに到達すると考えているがこれも異なるのです。

維摩経(ゆいまきょう)にこのことについて説かれている教えがあるのでちょっと長いが一部を紹介いたします。

維摩詰(ゆいまきつ)がその病気見舞いに来た菩薩や声聞(しょうもん)たちと問答をかわしている。
その時、天女が天の花を菩薩や声聞に降りかけた。

すると菩薩たちに降りかかった花は地に落ちたが、声聞たちにふりかかった花はそこにくっついて地に落ちない。
声聞たちは神通力を振り絞って花を振り落とそうとするが落ちない。

そこで天女が長老に言った。
「大徳よこの花を振り落として何になるのですか」

長老が答える。
「これらの花は出家の身に相応しくないから振り払うのです」

天女が言う。
「大徳よそのようなことを言ってはなりません。なぜかと言えば、この花は法にかなって物です。その理由はこの花のほうでは思慮し、分別したりしていないのに長老こそが思慮し分別しているのです。大徳よ出家して善説の法と律との中にありながら思慮し、分別するならそれこそ法にかなわないことです」

更に天女が言う。
「大徳よ御覧なさい思慮や分別を離れていればこそ菩薩の身体には付着しないのです。生死輪廻の恐怖におののく人には色や声や香りや味や触れ合うこと(五欲)がその隙に付け入ってくることでしょう。もし形成された諸存在への煩悩に対する恐れを去った人ならその人に対して色や声や香りや味や触れ合うこと(五欲)が何をなしうるでしょうか。愛着によって薫じつけられた習慣を今だ断ち切れない人には花が付着しますが、それを断っている人の体には付着しません」

長老が問う。
「愛欲と怒りと愚かさを離れるからこそ解脱があるのではないですか」

天女が答える
「愛欲と怒りと愚かさを離れて解脱すると言うのは慢心のある者に対して説かれたのです。慢心の無い者においては愛欲と怒りと愚かさの本性がそのまま解脱なのです」

私は怒りや不満をなくせと語っていますが、怒りや不満と戦えというのではないのです。
その本性を真実を知りなさいというのです。
戦わないことが戦いであるというのです。

日月神示
【まつりの巻 5帖】
邪祓うとは、邪無くすることではないぞ、邪を正しく導くことざぞ、追い払うでないぞ、まつろえよ。
引き寄せて抱き参らせよ、取り違いならん大切事ぞ

【梅の巻 19帖】
和合して物事成就するのぞ。
まつる心なき者マコトないぞ、マコトわからんぞ。