雑記(11)

2020年3月13日うん、暖かくなって来た。

医学は技術論・方法論ではなく結果論で批評されるべきだ。

その意味ではサーズ・マーズに無力なだけでなく新型コロナに活動自粛や手洗い以外に有効な提案ができないのであれば、人類の健康と生命を預ける分野としては失格と言わざるおえない。

季節性インフルエンザで年間1万人の死者、これは日本だけで世界もあわせると膨大だ。しかも現行のインフルエンザには有効な治療法が確立されているとする前提、そして莫大な費用と多大な人員を擁して研究された結果が1万人の死者だ。

だから俺は現代西洋医学は信仰だと言う。間違っても正当な評価を受けたサイエンスだとは思わない。

どんなに微に入り細に渡った論拠を用いても、最新の技術を施そうと、市場に出た段階で故障する車には全く価値はない。飛べば落ちる飛行機に誰が乗る、と言うのも同じ意味だ。

日常レベルで医学ほど法外な予算を投じて存続して来た業種は他に存在せず、また国を超えて信頼を得た学問もこの世には無いだろう。

なのに現実は市場に出た後も、たかだか季節性インフルエンザで1万人もの救えない生命を垂れ流しているのに、総体的な世間の評価は下がらず、相変わらず発明発見や涙ぐむ患者の生還ばかりがクローズアップされている。

おかしいよなおかしいよ。過激な表現を用いれば1種のカルトだ。これはとても深刻なカルト、ビックバン説はカルトだと言ったものとは次元が違う。なんせ人の生命と人類の繁栄に関わる問題だから。その評価も厳格で公平であるべきだ。間違っても都合の良い情報だけ発信していていいものではない、救われた好例以外に季節性インフルエンザなら1万人の死者数も同時に批評すべき。好例と同じ質と水準で死んでいった一人一人を発信すべきだ。

そうすれば自ずと現代西洋医学の姿が表に見えてくる。少なくとも今の地位と評価では存在できないだろう。医学とは全く違う他の治療法も模索しなくてはならなくなる。当然で当たり前だ、世の中が生命を基準にした倫理観で何かが評価されるなら、より有益な治療法が採用されるべきだろう。

その点では俺が知ってる、この場合治療法より治癒法の方が適切な表現だが、治癒法の方が現代医学を圧倒している。その治癒法を最初から採用すれば季節性インフルエンザなら年間死者数100人以下、がん患者なら現在の半数以下、他もほぼ同じ数字で、しかもこれらはとことん過小評価したものだ。信じられないだろうが実地に徹底的に研究すれば直ぐに答えは出るだろう。

ただし胡散臭いと世間では思われている組織だから、感情論や方法論・技術論を全て廃して結果論だけで評価してやってくれ。でないとフェアじゃない。

この治癒法の理念でいくと病気の原因も判明するし、健康も世代を経るごとに増進されて行く、そして何より予算は医学と比べようがないほど安価だ。後は個人の気持ちって事だろ、誰も強制しないから好きにすればいい。

この様に世の中には現代西洋医学以外の選択肢もある訳だ、厳密に実地研究して行くとそんなに選択肢は多くはないだろうが、少なくとも医学以外に選択肢がないなどと言う、半ば強迫観念に迫られることも無くなる。これだけでも人類および個人の負担や不安は解消され易い。

大切なのは選択肢を増やす事。

だが現代医療でも100年先に残る分野はある、これも数は少ないが緊急性が高いものとライフスタイルに即した分野、概ねこの2つ。具体的に俺からは言わない、他の選択肢側や人類の有識者・大衆などで議論すればいいだけの話し。

老衰以外で失われる命が少しでもなくなる様に願う。

noteでの執筆は今日はこれまで。

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