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離れて、良き無関係なる関係

おはようございます。

昨日。
ひたすらに
ただひたすらに
感謝せずには
いられないことがあった。

溢れ出るこの想いを
どう伝えればいいんだろうか?
何もかもが足りない
未熟な自分を感じながら。

こんな自分を
全力でサポートしてくれる方々に
心より
魂より
感謝せずにはいられなかった。

今までの人生のうちで
誰ひとり欠けても
何ひとつ欠けても
今のこのわたしはあり得ない。



「わたしがわたしでありたい」
と、願うなら
わたし以外の誰かや何かを
ただ受け入れればいいんだ。

「うん、それもありだね。
(わたしとは違うけど)」
と。

受け入れる(認める)ことを
負けだと思っていたり
論破しようとしたり

要するに「戦おうとする」から
拒否や否定になってしまう。

どうしても
受け入れ難い言動があった時には
「そんな考え方(行動)もあるんだ
と、世間の多様さを学んだと思えばいい。

「自分の波動が反映して作られる世界」
そう言われるようになって久しい。

ならば
自分の物差しで他を計って
ジャッジして
他者をはねつけて
他者を受け入れない態度では
「わたし」は
あり得ないんじゃないかな?

だって
自分は他をはねつけているのに
自分だけ受け入れてもらおうなど
そんなムシの良い話はないもの。

「ジャッジしない生き方」というのは、
「ジャッジをしてはいけない」
のではなく
「ジャッジしたくなくなる」
ということなんじゃないかな
と感じた。

「ジャッジ」
そのものは永遠に無くなりはしないもの。

ジャッジしないでおこう
ジャッジしちゃダメだ
などと思えば思うほど意識して
「ジャッジ」
が気になる。

だから他者の世界観に
自分の物差しを持ち出さない。

それが要。

だから
「ジャッジしたくなくなる」
のではなく
ジャッジそのものに
フォーカスしなくなるんだろうな…
とも感じた。

だって
わたしの感じる世界は
わたしのものであって
わたし以下でも以上でもない。
わたしだけが感じている世界。

世界に70億人がいるならば
70億の世界がある。

瞳には同じ物が写っていても
それをどう解釈するのかは人それぞれ。
それこそが個性であり
それぞれの「世界観」

そのひとつひとつの世界観を理解できずとも
「そんな感じ方、世界観があるんだね」
と、相手を尊重する事ができれば

自分と相手の似たところを見つけたり
違いを感じたりして
心地よい空間(距離感)が生まれる。

敵対するような境界線ではなく
「わたしはわたし、あなたはあなた」
な穏やかな境界線が成り立つ。

ここ数年
わたしは自分の中で
何度も何度も
『限界自分超え』をしてきた。

それは
自分にとって
都合の良いことばかりではない。
むしろその逆。

でも
その度に
心は千々に乱れながらも
「そんな世界(考え方)があるんだ」
と、相手と自分を尊重し
それぞれ距離感を保ってきた。

尊重するが故の距離でもある。
好き嫌いの問題ではなく
ただ相手とわたしのエネルギーの違い。

どうしても一緒にいられなくなる。

穏やかな
「わたしはわたし、あなたはあなた」

近けりゃいいってものでもない。
「離れて良き無関係なる関係」
になる。

そのように理解すると
永年の縁が疎遠になったり
つきあいが解消しても
「あぁ、卒業の時期なのかな」
と、納得できるのではないだろうか。

感謝とともに。

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