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祝福を受けるような狂言。


芝大神宮の梅

「狂言を見ていて、なんだか「祝福」を受けるような気がするのはなぜでしょう?」というご質問を頂きました。

今まで聞かれたことのない質問だったので咄嗟に出た回答ですが、常々に思うに、狂言というものの本質は「他者への慈しみ」や「人間讃歌」のお芝居だと思うのです。

狂言に登場する人物はお調子者であったり、怠け者であったり、性格が捻じ曲がっていたり、どうしようもない男たちばかりなのですが、最終的には笑いで包んで肯定してくれる設定です。

良い部分もあるけど、悪い部分もあるよね。それが人間だよ。という人間そのものを肯定してくれます。それが「祝福を受ける」ように感じられたのではないでしょうか。

また、江戸時代まで日本は国内での争いが絶えませんでした。また健康面や衛生面からも長生きすることは稀だったでしょう。つまり庶民も武家も貴族も身分にかかわらず、常に「生と死」が日常隣合わせだったはずです。

「自身の生きることの喜び」「他者が今生きている素晴らしさ」そういった喜びを「笑い」「明るく」「楽しく」表現しているのが狂言の持つプラスパワーだと思います。

いつでもニコニコ笑顔でいる。
生きる喜びです。
明日も頑張りましょう!

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