見出し画像

教養と承認欲求のためだけに教室の和を乱していた時の話

教養とは、如何にたくさんの単語と、概念と、閉じた分野のノリを知っているかどうかを指標として判断されるステータスなんだろうと思う。

このパラメーターが高いと、それらを下地としたカルチャーを楽しめる確率が上がったりするし、
会話の流れでタイミングよく差し込めた日には、周囲から軽く一目置かれやすくなったりすることもある。


中学生くらいの頃までは、「とにかく物知りな人がかっこいい」という価値観を基に行動していたので、
とにかく手当り次第に物の名前や情報なんかをかき集めては、誰かの前でお披露目できる機会を常に伺っていたと思う。

昔から「やりたい!」となったものは満足するまでやり続けて、それが「やりたくない!」に変わった途端に全くやらなくなるような人間だったので、
このゴールがどこにもない情報収集は、こうした興味のスイッチが切り替わるまでの間、やたらと高い熱量で毎日継続されていた。


ちょうどその頃の担任が、生徒の集中力を維持するための工夫として、授業の隙間にちょっとした雑学クイズを混ぜ込んでくる人だった。

例えば、歴史の授業の中で「ワダツミ」という言葉が出てきたら、
「ワダツミは日本の神様ですが、何を司っている神様でしょう?」というようなクイズが出題されたのを覚えている。

先生にしてみれば、まさか中学生なら答えを知らないだろう、
子供たちに知らないことを推理で当てさせて、楽しく学ばせようという思惑があったんだろうと今になって思う。


そんなクイズに、元々答えを知っていた自分が先回りして正解してしまったことで、
意図を潰された先生はそれでもその気持ちをを飲み込んで「すごいね!」と褒めてくれたんだと思う。

楽しく盛り上がりながら授業を進めるために先生が考えてきた工夫を、
知識をひけらかしたい欲求に耐えかねた自分がしゃしゃり出たことで、台無しにしてしまった。

当時の自分は、そんなことにも気付かず、クイズに正解して褒められたことに対してただただ無邪気に喜んでいた。

そんなわけで、当時の自分にとっては、
使うあてもなく好奇心に任せて集めてきた知識が日常生活の中で役に立った、ということがとにかく嬉しかった。

しかも、それをみんなの前で褒めてもらえたという事実に有頂天になった。

そんなことがきっかけで、中学生の頃の自分は、この先生が軽い遊び心で授業の中に付け加えただけのクイズに夢中になった。

知識を集めていれば、もっとクイズに答えられるようになるということが、それまで目的なんてなかった情報収集のモチベーションになっていった。

その結果、授業中には大して手を挙げたりするわけでもないくせに、そのクイズが始まった途端に前のめりになって、めちゃくちゃ回答しようとするようになった。

そのうち、あまりの熱量からか解答権の大半が自分に回ってくるようになって、
正解したとしても「まあ、あれだけ答えたがるならそうでしょうね」みたいな白けた空気感が教室に充満するようになってしまった。


先生は、せっかく考えてきたクイズが変な生徒のせいで不発に終わる度に、いつも困ったような顔をしていた。

授業を楽しんでほしいという先生の思いやりから始まったクイズの時間を、異常な熱量で根底から丸ごと破壊してしまっていた。


周囲のそういった雰囲気には、クイズに夢中になるあまり全く目が向いていなかった。

しかし、クイズが始まると教室が露骨に盛り下がるようになってからは、
流石に「なんか変だな」と思うようになった。

そして、そこから部活の基礎練習の間なんかを使って1人で色々考えてみた結果、
「もうこれ以上出しゃばらない方がよさそう」という結論に達した。


その日からは、流石に全く手を挙げないのも不自然なので多少は回答しながらも、できるだけ他の人に解答権を譲るように心がけた。

その結果、あんまり自己主張は強くないけどクイズにめちゃくちゃ強い生徒がいることが判明したりして、クイズの時間がそれなりに盛り上がるようになっていった。

この一件があった日から、「自分はちょうどいい塩梅で輪を乱さずに生活するのが下手なんだろうな」という認識が生まれた。


それ以来、「別に目立つことが絶対正義なわけじゃないんだな」と思うようになって、目立ちたがりな自分を消そうとするようになった。

その一環で、知識をひけらかすことにしか繋がらない情報収集もやらなくなっていった。

本の中で知らない言葉が出てきても、嬉々として検索する習慣がなくなっていって、
会話の中にそれらを無理矢理ねじ込もうとすることもなくなった。


それからというもの、何らかのマニアみたいな人が好きなものについて嬉しそうに力説しているところを見ると、あの時のクラスメイトの白けた様子が頭に浮かぶようになった。

このようにして、何らかのジャンルを深掘りしてマニアになる過程を踏むようなことがなくなっていった。

ちょっと興味が湧いたりして、趣味を始めてみるにしても、自分の中でやってみたかったことが7割くらい達成された時点から無意識に離脱しようとしてしまう。

「今の時代、自分の中で限界まで極めたものが1つはあった方が強みになる」みたいな価値観と出会ったのはその行動が染み付き終わった後のことで、
それ以来、中途半端な趣味をいくつか抱えて途方に暮れている。

今まで自分が考えてきたことと、それを基にした軌道修正をこうして要約してみると、
自分の中で定めたルールみたいなものに左右されすぎていて、全然器用に生活できていないなと思ってしまった。

こんな気付きが生まれてしまったら最後、
自分のルールに逆らうようになっていって、どんどん思うように生きられなくなってしまうのかもしれない。

好きなように生きるのが下手すぎる。
これから上手くなっていってほしい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?