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世阿弥の「離見の見」で外の視点を獲得する ―アバターと身体の質問箱配信より

質問の傾向について

4/20(土)に「アバター・身体・魂の関わりについて、専門家さんと一緒に考えてみましょう」と題して、専門家さんとのお悩み相談室を配信しました。
質問の傾向としては下記の通り。
・アバターの意義や役割について
・「美少女」という記号に関すること
・起こりうる(現に起こってる)現実との剥離の問題について
特に剥離の問題に関しては世阿弥の「離見の見(りけんのけん)」という具体的な対策を提示して頂きました。

アーカイブはこちらです(53:27)。

全体をざっとまとめたのがこちらの図になります(拡大してご覧ください)。

結論と言いますか、すべての質問に対して「アバター性と物理性のバランス、また物理・アバター双方の身体と心のバランスをいかに保つかが重要。そのためには世阿弥の"離見の見"のように、自分とアバターを外から見る視点が必要」という点が共通していました。
筆者的な結論としては、自分とアバターを外から見て「自分はこう見られたい」というバラメータをいかに割り振るかってことなのかなと。
(・・・と思っていたのですが、どうも次の配信はアバター環境の違いから、今回筆者が思った結論と真逆の方向に行きそうです。それはそれで違う視点として受け止めるつもりです)


まず最初のご質問。

「男性の心と女性の心というものは存在するの?」

下記、再生すると1つ目の質問の場所に飛びます。


「話を聞かない男・地図が読めない女」のように、男性の心と女性の心は分かれているものなの?というご質問でした。ヒトは生まれつき男性/女性なのか、男性/女性に「なっていく」のか。
結論としては、完全な男性/女性は存在しない。社会・学校・コミュニティーなど自分がフィットする場でどう振る舞うかによって「性」(おそらく人格も)が作られていく。
そもそも人格は他者によって作られるものだと考えると、この結論に納得ですね。


次のご質問は

「アバターの役割ってなあに?」


小林先生によると、アバターは「症状」なのだそうです。

下記、再生すると2つ目の質問の場所に飛びます。



もちろん病気の症状とはまた別のものですが、もう少しこの点お伺いしたかったですね。
筆者的は、「自分をどう見せたいかデザインできてしまうこと」が症状にあたるのかなと理解しました。見せたい自分を意図的に作ってしかも制御できること。それが「できてしまう」こと自体を症状と呼ぶのかな?と(すみません、後日ご本人にお伺いします→お伺いしました)。
アバターデザインというかキャラクターデザインは、各デザイナーが記号に対してどんな意味を持たせたいのかが露骨に出てしまうものでもあります。性癖が出てしまうというやつですね(違
アバターデザインはキャラクター自身の性格はもちろん、デザイナーの性格や思考までもが丸裸になってしまうもの。もしかしたらこれも「症状」とすると、ある意味SNS時代の現代人の症状とも言えるのかもしれません。

※後日小林先生が「症状」の意味について解説して下さったので、ご紹介させて頂きます(筆者とご本人とのやり取りを一部引用)。
アバターになろうとする欲望がある種の病気で、アバターが症状。
あるいはアバターを生みださざるをえないこの世の中こそが病気だということ。
いち早くアバターという症状で反応している人たちは、それだけ世界という病いに対してアレルギーのように敏感に反応している。


3つ目の質問は

「自分の考えが女性的になっていくのは性同一性障害的なもの?」

バーチャル美少女として過ごすうち、美少女のほうが自然と感じるようになっていくことへの不安に端を発した質問でした。

下記、再生すると3つ目の質問の場所に飛びます。


性同一性障害はそもそもイヤな体験をトリガーにして内部の性と外部の性に断絶が起こることでなので、アバターとは異なる。アバターはアバター性と物理性2つありきで自分が成り立っているから、(たとえトラウマがきっかけとしても)性同一性障害ではないのではという結論でした。
男性性や女性性を強要されたとか性に関するトラウマがきっかけでアバターをまとったとしても、自分が今まで生きていた歴史や思考はアバターの中に必ずあるハズで、それは大事にすべきなんだと。そこを否定したらアバターも否定することになっちゃう。(逆に考えると、自分の中にない歴史や思考をアバターに無理やり付与させると剥離の可能性が出てくると言えるかもですね)


最後は

「身体と心の剥離に関する問題について、アバターは何ができるのでしょうか」

という質問でした。

下記、再生すると4つ目の質問の場所に飛びます。


剥離が起こる条件として、配信中よく出てきたように「アバター性と物理性の調整が上手くいってない」ことが一因としてあります。
その対処法として小林先生から提示されたのが、世阿弥の「離見の見(りけんのけん)」。デジタル大辞泉によると「演者が自分の演技について客観的な視点を持つこと」だそうです。
芝居のときは外側から見つめている自分がいなきゃダメだ、ちゃんと見つめてる存在がいないと暴走する。それは芝居もアバターも同じでは?と小林先生。
ちなみにウチの配信でゲストに来て頂いた舞台俳優さん・演出家さんも同じことをおっしゃっていました。
彼女(質問者さん)の凄いところは、アバターと物理の問題に葛藤しつつもきちんと言語化していることだと思います。
例えば「表現手段としてのアバター」やSNSアカウントを複数運営する、というのも「離見の見」を実践するひとつの手段なのかもしれません。

次回は「装うこと」のプロであるファッションの専門家さんをお呼びして、4/26(金)21:00より「アバター・装うこと・本質」について切り込んでいきます。頂いた進行表によると、今回と真逆の結論になりそうで個人的にも楽しみです。
よろしければ今回とセットでぜひお楽しみください!

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