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VR・アバター身体論―分散する自己をどうデザインしていくか

認知科学と哲学、その双方から語ること

11/8,9とお2人の専門家さんをお招きして、VRやアバターから身体論を考えるトークを行いました。8日は東大の鳴海拓志先生が認知科学など理系の視点から、9日はIAMASの小林昌廣先生が哲学や表象文化論など文系の視点から語って頂いています。
お2人を連続にしたのは明確な意図があり、

・現象を理解することで、疑問や不安の解決につなげる(理系)
・その上でどうしたらいいのか・感情的な部分にどう折り合いをつけたらいいのかを考えることにつなげる(文系)

という流れを意識していました。恋愛工学なんて言葉もありますが、恋愛の心理テクニックを知る理系的視点、感情をどう捉えたらいいのかを知る文系的視点のように。
そこで双方補い合っている部分が見受けられたので、一度流れをまとめてみることにしました。
未知のテクノロジーには規範や議論するための前提がまだ存在しない。それでも発展しようとする世界に(反発も含めて)いかに適応していくか。そのヒントが文系の視点の中にあるのですね。

倫理とは

昌廣さん回スライド.002

モノを選択する際に参照できる、できるだけ多くの情報や事例を私たちは「倫理」と捉えています。コメントで指摘して下さっていましたが、「選択肢」を考えることでもあります。アバターの倫理の場合は、まずアバターの可能性や問題を自分の中でどう了解していったらいいかについて皆で考え、様々な選択肢をピックアップする。そしてその極めて個人的な思考を共有できるものとして相対化していくことを示します。共有するために具体的なものを抽象化・相対化していく。これは倫理だけでなく哲学のひとつのあり方でもあります。
個人として社会として、より良い選択をするための準備として「問うこと」が必要である―私は歴史学を学ぶ友人たちにその重要性を教えて頂きました。

お2人の配信から見えた今後の課題

分かれていく「私」・複数の「私」をどう調整していけばいいのか。これがお2人の結論に共通するものでした。鳴海先生は「ゴーストエンジニアリング」として自己の再デザインを、小林先生は「混成体としてのアバター」を考えることでヒントを提示して下さいました。リフレクション・内省することで自己を振り返り、距離がおかしくなったら自己に立ち戻る。それが当面の対処方法だと、お2人の配信から私は導き出しました。

配信アーカイブ

VRにまつわる様々な現象から「アバターと身体」を考える鳴海先生の配信アーカイブがこちらです。

また身体論・表象文化論・哲学などから「アバターと身体」を考える小林先生の配信アーカイブがこちらになります。

主な身体論

アバターの身体論2019_ページ_2

日々変わっていく私たちの身体の捉え方ですが、今回の配信では小林先生が下記の5つに分けてくださいました。

・機械論的身体論・システム身体
心と身体を別々に考えるもの(心身二元論)、刺激に対してオートマチックに反応する身体のこと。これは鳴海先生の配信で出ていた「ヒトに共通した感覚情報の仕組みを利用する」ボトムアップのVR手法につながるところかと思われます。

・液体的身体論
中国の身体論。身体全体には「気(気功術の気)」と「血」があり、それが滞ると病になるという考え方を示します。

・超越的身体論
自分の身体の外部に超自然や神といった超越的な存在を認めることで自己を認識する。超越的な存在に「生かされている」と認めることでもあります。

・自己同一性
アバターでよく言われる身体。自分の同一性がどこまで保証できるのか。それがアバターと自分の身体をどう関係付けていくかにつながります。バ美肉お兄さんの場合、自分の意識の中でアバターとお兄さん双方が同一性を補完し合いながらそれを保とうとしているのではないか。そして圧倒的な他者であった美少女を自分の中に取り込むことで、同一性を強化してるのではないかと小林先生は推測しています。これは鳴海先生がお話して下さったファントムセンスや分人のデザイン―ゴーストエンジニアリングにも関係することですね。
 →美少女に「なる」のではなく、元々の主人格に「バフ(ステータス上昇効果を引き出す術やアイテムなど)」を盛っていることが多いのではないか?と私は個人的に推測しました

・環境身体論
例えばダンスの場合、ダンサーが揺らしている空気や場―環境を私たちは鑑賞する。そのときの環境と身体の関係を示します。

ファントムセンスとは

VRコミュニケーションにおいて感じる「提示していない感覚を感じること」「ない器官があるように感じること」について、俗に「ファントムセンス」と呼ばれることがあります。ヒトにはない「しっぽ」をなでられることで、触れられた感覚を感じるなどです。
このファントムセンスを構成する具体的な現象について、鳴海先生は下記を挙げて下さいました。


・多感覚統合/クロスモーダル知覚
 →アバターの女の子が近づいてきたらいい香りがする気がするなど、ヒトは多様な感覚を統合して、体験の文脈における期待や注意、経験に基づいた最も「らしい解釈(リアリティ)」を構成する
 →自分のしたい解釈に従った感覚の体験を得ている
  →逆に考えれば、注意を向けさせることで普段意識にのぼらない感覚を刺激することができる
 →視覚優位なことを利用して、他の感覚の感じ方をコントロールできる


・ペリパーソナルスペース・身体近傍空間(手が届く範囲の空間)とクロスモーダル知覚
 →例:蚊が耳元に飛んでくると触られたような感覚をもつ。音が触覚を生起する
 →手の届く範囲の空間では多感覚統合が促進される
 →ガチ恋距離でドキドキするのは、身体近傍空間(手が届く範囲の空間)で視覚と触覚の感覚情報が多く処理されるため。この空間にあるものは、見ただけで触れられたような気がしてしまう


・身体所有感
 →アバターと実際の身体の動きが連動することで「この身体は私の身体である」と思い込むことができる。物理の手ではないモノ(ニセの身体)で冷たいものを掴むと、体温が下がることも
 →逆にアバターの身体所有感が強くなると、物理現実の身体が希薄になる
 →リアルなアバターであるほど身体所有感が高くなる。また身体所有感が高いアバターを使えば、そこで起こることを真実だと思い込む


・プロテウス効果
 →アバターの外見がそれを使うユーザの知覚・行動・態度に影響を与えること
  →どんなアバターを使うかで、私たちが世界をどう感じるかを大きく変えている。結果、行動や態度が大きく変わっている
   →かわいいの呪い…(コメントより)
  →実際の自分とは異なる見た目や能力を持つアバターでは、その見た目や能力のイメージに引き寄せられた自己を作ろうとする
    →賢いイメージのアバターをまとってテストを受けた場合、成績が上がる
    →先入観を強化することにつながるが、あえてその先入観を利用することで新しい視点や能力が得られる可能性も

アバター身体論を構築する上で必要なもの

アバターの身体論2019_ページ_3

小林先生にアバター身体論を構築する上で考える必要があると思われるものをピックアップして頂きました。これは上記のファントムセンスの要素も含まれており、自分とアバターの状態をどう捉えるかがキーとなります。

・他者としての自己、もうひとりの自己
自分の中に自分以外の「何か」がある状態。お酒を飲みすぎてしまったときなど自分以外の何者かになってしまうような感覚がありますが、アバターの場合はそれを意図的に外在化(表現する)する・操作して作っています。自分と対峙するもうひとつの自己でもありますね。ゆえに自己同一性の可能性や問題が発生してきます。

・分身(分人)としてのアバター
今までは「分割できないもの」=個人という考え方でしたが、個人を細分化した存在として捉えたもの。自分というひとつの存在の中にそれを構成している小さな自分がいて、その一部が外在化されたものが分人である。これはアバターをまとっている人たちが自己の存在証明として活用する上で便利な考えでもあります。ただその分人同士のバランスが崩れたとき、主人格(バーチャル物理問わず表に出ている時間が最も長い人格)が分人という存在を操れなくなったとき、精神医学で言う解離障害のようなものが起こる可能性がゼロではない。

・混成体としての自己/アバター
どこからがアバター(他者)でどこからが私なのかの線引きをすることはできない。物事が混ざって線引きができない状態を哲学で「混成体」と言うそうです。アバターを他者として捉えたとしても、アバターが主人格(物理・バーチャル問わず表にいちばん出ている人格)に影響を与えることもあるし、その逆も然り。だからアバターを複数作っても(意図的にそうしない限りは)アバターと自己をスッパリ分けられるものではなく、マーブルな状態となる。もしアバターに自分が取り込まれそうになったら、自己を振り返って自己に立ち戻ることで自分をアバターと切り離すことができる。メタ認知・客観視の視点もそこに含まれると考えられます。切り離さず取り込まれた状態が幸せなのか、それが当たり前の世界を構築していくべきなのかは考えていく必要がありそうです。

・ネット環境のなかの自己表現
ネット環境の中で覚醒した存在とアバターを捉えてみる。現状のアバターはネット環境との繋がりあってこそ存在するもので、裏垢と近いもの。特にVTuberは視聴者やSNSのフォロワー、つまりネットとの繋がりによって存在できているものであり、「ネット環境のなかの自己表現」として最たるものと考えられます。

・アバター同士の共有圏
アバター同士で考え方・世界・身体・言語などを共有できる「場」のこと。VRソーシャルが近いでしょうか。この「場」はアバターにとってもうひとつの世界、他者同士が関わりあう公共圏として捉えることもできます。もうひとつの世界だからこそ、そこで人々が快適に過ごすための一定の秩序や世界観などが必要となってくる。この公共圏のデザインが上手くいけば、アバターの世界観が拡張する可能性があります。

・道具としてのアバター
アバターは単なるお洋服だったり、コミュニケーションツールだったり、自分の目的を達成するための手段でもある場合。自分の中にしかなかったものや自分の身体が直に発する情報を外部化できることは驚きだけども、単なる道具でしょという距離があるような見方です。なので自分自身があくまでアバターより優位であると捉える側面が強い考え方です。

・存在不安を解消するためのアバター
自分にはない強さや可愛らしさ等をアバターに演じさせることで、自分自身の存在の脆弱さを克服しようとする傾向のこと。これもバ美肉によく見られる傾向ではあります。

自己とは

自己には「統合された感覚を知覚・経験する自己(身体的自己)」「経験に基づいた自分自身のイメージ(自己観)」という2つのレイヤーがあるそうです。特に後者は物理で経験してきた性とは異なる性のアバターをまとった際に剥離が起こる原因のひとつとも考えられます。ヒトは自己イメージを維持しようとする傾向があり、そのイメージに合わない自己概念は受け入れにくいためです。コメントで指摘して頂いたように「キャラではない」ということですね。
また自己イメージは環境や役割によってダイナミックに変化するため、上手く役割を変えてあげると違う自己イメージを生み出すこともできます。例えば「私は子供になったんだ」と強く確信することで、子供らしい考え方や振る舞いになったりとか。
なお自尊心の低い人や自己があいまいな人ほど、アバター(「キャラ」)の影響を受けやすいそう。自尊心が低く自分に自信を持っていないからこそ、違う存在になりたいと思う。違う存在の影響を受けて自分が変わっていきたいと思うなどです。特に自己があいまいな人ほどアバターの影響を受けやすいというのは統合失調症と同じ傾向にあるのだとか。これは小林先生がお話しされている「分身(分人)としてのアバター」でも指摘されています。自己があいまいだから、その時々によって違う自己が現れてしまうということですね。だからこそどんなアバターにもなれる可能性もあるのかもしれません。

身体所有感の個人差とは

私たちの配信で明らかなように「この身体は私の身体である」という身体所有感には明確な個人差があります。鳴海先生はその原因についても言及して下さいました。

・物理男性は男女アバター双方に身体所有感を持つが、女性は女性アバターしか受け入れにくい傾向にある
・自分の人生を左右しているのは自分自身である、と思うような信念の強い人ほど没入感が強い。さらに擬似的な触覚を感じる率が高い
・自分の身体の状態に鋭敏な人ほど身体所有感が低い
・暗示にかかりやすい人ほどアバター=自分と感じやすい。ただアバターにどれだけ引きずられるかには影響がない
・自閉症の人たちは感覚が鋭敏であり、より視覚優位での感覚統合が起こるのではないか。だから一貫した自己が保てない?

アバターと身体の関係が抱える闇

承認を得たくて過剰な行動に出てしまう、「女性」扱いをされたいのに男性性が邪魔をする…など、アバターをまとってコミュニケーションしたときに自分と上手くマッチしない・思っていたように機能しない点が出てくることがあります。それらに共通すると思われる要素を小林先生は提示して下さいました。

・物理性・身体との解離
自分でデザインした「キャラクター性」が自分の中にない場合、上手く取り込んで新しい自分と付き合っていく人もいれば、演じることに疲れてしまう人もいる。ファンから求められるキャラクター性や役割がどんどん肥大して、それに適応できず鬱状態になったケースもありました

・アバター性に取り込まれる不安
これは時間とともに変化している印象があります。半年前までは自分の中に生まれた女性性とどう付き合っていくか悩んでいた方々が、物理性の状況を無視して今は自らの欲を解決する手段としてポジティブに捉えている。これについてはジェンダーも絡むので、女性性/男性性をインスタントに扱っていいのかなど、人によって考え方が分かれるところです。

・日常的自己の希薄化・無効化
とはいえアバター側を「現実」とした場合はどんどん物理現実の自己が希薄なものになっていく。折り合いをつける手段として「物理側を無視する」という方法もありますが、物理とアバターのバランスをどう整えていくかが当座は重要なのでしょう。

・アバター世界のリアリティ
アバター世界を「現実」と捉えることは是非あるかと思いますが、鳴海先生もおっしゃっているように、アバター世界を利用するユーザ側が毒にも薬にもなり得ることを忘れてはいけないということですね。

・アバターの固有性/普遍性
アバターと物理性が異なる場合は圧倒的な差異がある。それでも同一性・唯一性を重視することで起こってくる悩みもある。同一性や唯一性を担保するために他者の承認を必要とする場合などです。

アバター心理学があるとしたら

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小林先生はアバターに心のような機能を持ったものがあるとしたら、と仮定して、下記の要素をピックアップして下さいました。これらの要素は今の臨床心理学などと重なる部分が多く、解決するのが難しいものと繋がっているのだそう。アバターにおける悩みを見ていけば、臨床心理学で解決が難しい問題に関する解決の糸口になり得る可能性もある。その面でもアバターに可能性があるとのことでした。

・自己同一性障害
自分の中にいくつもの自分があって、それをコントロールできずに次々新しい人格が出てくる。本人にとっても苦しいし、コミュニケーションしようとしている人たちも苦しい。分人でこれから問題になってくるのは「何を信じたらいいのか」ということなのかもしれません。分人間である程度の統一性・一貫性がない場合に、複数の分人と接する人たちは何を信じたらいいのか分からなくなる可能性があります。またアバター間でコンフリクトが起こることも、この自己同一性の問題が関わってきます。

・離人症
自分自身が自分から完全に抜けてしまうこと。自分の身体そのものが透明になっていくこと。これは上記の「日常的自己の希薄化・無効化」と繋がってくると思われます。

・憑依と脱魂
例えるならイタコさん。自分の中に死者の魂が入ってくるのが「憑依」、死者のほうに自分の魂が移動して語るのが「脱魂」。あれあれ、この状態どこかで見たような…?どちらの状態に近いのか見極め、自分とアバターの距離を(その人にとって)適切に保つにはどうしたら良いのかを考えていく必要が出てくるでしょう。

・世界内存在の乱れ
私たちの身体は外部の世界と繋がって存在している。その関係が乱れて、自分の身体性の安定感がなくなっていくこと。自分とアバターという世界があって、その関係性が乱れてしまうことを示します。

・コミュニケーション障害
アバター同士で皆が気持ちよく過ごすための共通の公共圏や一定の秩序、世界観を作って上手くやっていければ問題はない。ですがバーチャル空間で恋人同士だった人たちが物理現実ではそうなれなかった、などの例があります。ただこれはアバターがまだ公共化・一般化していないから起こりうることで、そのうち解決する問題なのではないかと小林先生は捉えています。


ゴーストエンジニアリングとは

私たちの認知機能が身体によって変わるなら、VR上で自分の身体を変えることで自己と上手くやっていける術があるのではないか。そのデザインを鳴海先生は「ゴーストエンジニアリング」と名付けていらっしゃいます。まさに身体の再デザインによって自分の状態を再デザインできるということですね。アバターによって人に優しくできたりより賢くなれたり。そんな未来を鳴海先生たちは作り出そうとしています。
ですがこれは使い方次第で薬にもなり毒にもなる。科学者さんたちが理論を導き作り出したテクノロジーをどう扱っていけばいいのか。私たちユーザやテクノロジーを用いた文化の作り手も、未知のテクノロジーについてどのような倫理観を持っていくべきかを考えていかなければならないでしょう。SFでよく描かれているように、アバター社会は単なる娯楽だけではなくインフラになっていく可能性は十分にあります。せっかくのテクノロジーが毒にならないために…

アバター社会とは

これからのアバター社会はTPOに応じてアバターを使いこなす能力が必要とされるのではないか。そうして得た柔軟な思考・広い視野・多様な価値観がより良い社会を作っていくかもしれない―それがアバター社会の可能性である、とは今までご出演して下さったすべてのゲストさんに共通した考えだと思われます。
ただ「何にでも変身できる人間」となるには様々な問題を乗り越えていく必要があります。まず分散する自己たちをどう調整していったらいいか。どのように手綱を取ればいいのか。自己が分散することで起こる「何が本当なのか分からない」という感情にどう向き合えばいいのか、分散する自己たちのための空間が快適なものであるためにはどうしたらいいのか、などですね。小林先生には次第に馴染んでいくだろうとおっしゃって頂きましたが、馴染んでいくプロセスのデザインを倫理観ともに今後考えていく必要があるのでしょう。

まとめとしての主観

あくまで私の主観ですが、私は分人としてのアバターを「何にでもなれる可能性を持ち何でも吸収できる、いい意味で"空っぽ"」の状態と考えます。分人のイメージがゲーム「ペルソナ」シリーズの3〜5の主人公のイメージに近かったからです。主人公の彼/彼女は最初は繋がりを持たず、それゆえにプレイヤーの選択次第で何にでもなれる可能性を持っています。そして(プレイヤーによって)他者との繋がりを得て自己を確立して、成長して大人になっていく…
分人は自己が分かたれることで、固定観念に捉われず様々なことを吸収できる。それが積み重なってその人なりの核・美学・哲学を持つひとつの主体が形成されていく。そして必要に応じてまた分人が生み出され、主体を更新していくのではないか。配信から私はそう考えました。本人や社会にとってより良い主体であるために、分解と再構成を繰り返していくのかもしれません。


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