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学生と社会人のあいだ

きのう4年間の大学生活の幕を閉じました。
大学生でなくなる、というだけではなくて、16年間お世話になった”学生”という肩書とのお別れ。

そんな大きな節目のど真ん中にいる私を書いてみたいと思います。

大学生活に期待をしていなかった

私が大学1年生のとき、授業で一緒だった先輩との帰り道ふとこう聞かれました。

「卒業するときに『大学生活何色だった?』って聞かれたら、なんて答える人が一番多いと思う?」

私は黒と答えました。大学生活っていろんなことができるし、楽しいし、雑多だから、色が混ざり合うような、そんなイメージ。

そのときの私は大学生活になんの期待もしていませんでした。
中学、高校と期待して入学して、両方とも見事に裏切られたからです。
もしかしたら、他力本願で、自分で努力をしなかったからかもしれません。
だから、大学に入ったときは未来のことはなんにも決めずに自由に生きようと決めました。

適当に生きました

適当ということばを単純にとらえると「何も考えてない」というようなネガティブな印象を受けます。

本当は「ちょうどいい」とか「ふさわしい」とか良い意味もあるんだけどね。
もちろん私の「適当」という言葉にも両方の意味があってほしいと思いますが、私は何も考えてない「適当」であることも受け入れています。

自分が何をしたいのか、何をしているときがしあわせで楽しいのか、なんて考えずに自分のアンテナにひっかかったものにはすべて飛びついてみました。
そして私のアンテナの受信を邪魔するものはすべてとりはらってきました。

だから、バイトも1年毎に変えて、サークルも2年でやめて、長期インターンも3社やりましたが、最長半年。留学も半年と一か月で持続性のかけらもない。意識していたのは「就活」だけ。
1年生から就活を意識していたことにあほらしいと思っていましたが、そのおかげで3年間突っ走ってこれたので、就活を意識しすぎることはけっして悪いことではない、と今の私は思います。

もう一つの私の原動力であったものはコンプレックスです。

過去好きだったけどかなわなかった人に成人式でふったことを後悔させること、小中高でのスクールカーストで私より上だった人に「すごい」と思わせること。
でも、ふたつとも直接言われるというのは必要ではない。つまり、主観の他者視点であり、自分が「この自分ならそう言わせられる」ということが目標でした。

そして、私はいまその自分になれた気がしています。

これからの目標はていねいに生きること

ていねいに生きるという意味は人それぞれだと思いますが、私は「いま、ここ」を大切にできる人間になりたい。

自分の思考を未来や過去ではなくいまにおき、目の前のことに一生懸命取り組む。単純ですが、私にはできていないことだと思うのです。

私がしあわせだと感じるときのひとつは「ひとと話している」ときです。
それは思考に過去や未来を考える余裕がなく、ひたすら目の前のひとと向き合っているから。
悪い流れがあっても人と話すとそこでその流れが断ち切れる。

その感覚をひとと話すとき以外にも持てるようにしたい、それが私の理想。
ライン作業のように時間を流すのではなくて、ひとつひとつ手に取って点検するような、そんなイメージ。

常に「いま自分がなにをすべきか」「これを通してなにがしたいか」を考え、ひとつひとつていねいに行動していくことが理想です。

何がしたいかなんてわかりません

「自分のしたいこと」を探してたくさんのことに足やら手やら首をつっこんできましたが、私がこれから何をしたいか、なんてまだわかってません。

ここまで探し続けていたのに見つからないのなら、私は目標を追うことが苦手なのかもしれない、だったらまずは自分が「楽しい」状態でいることにしようと決めました。
それで周りに伝播してしあわせになってくれれば自分は周りに貢献できます。
でも、その人たちが私のおかげでしあわせになっているかなんてわかりません。
これも私の主観でしかない。

会社で「イキイキ働く人を増やしたい」と言って私は内定をもらいました。
でも実際かなえたい社会が具現化されるイメージは持ててません。
いまでも「イキイキしている」という状態をただの主観でしかとらえてません。
これもきっとこうしたらイキイキ働く人が増えるであろう、と信じ続けるしかありません。

ある人との対話で「何がしたいか」を考えるにあたり自分にとっての「しあわせはなにか、楽しいと思うことは何か」を聞かれました。

私のしあわせは、自分が必要としている場所で貢献していると感じるときです。そして、必要とされることです。

だから、自分のストレングスである、規律性、アレンジ、調和性、回復志向、分析思考を生かしてどこかに貢献できること、これが私の生きる意味であり、働く意味です。ちなみに、これらはストレングスファインダーで知った私の強みですが、とても自分にしっくり来ています。

そのあとに「あと1年間しか生きれなかったら何がしたい?」と聞かれました。

旅して生活するかなーとか、とりあえず仕事やめるかなーとか、考えましたが、このまま1年過ごしても後悔しない気がしています。

なんでも無理やり楽しむし、割といまの自分が気に入っているってことなのかも。

自分のいまを肯定していくこと

どうやって生きたいか、と言われたら、
いまを肯定していきたい。

自分の選んだ選択を正解にしていくこと。
それがていねいに生きること、そして「いま、ここ」を生きることにつながり、自分の主観を信じることができるのだと思います。

この前、著名な方と同席させていただいたときにおっしゃっていた心に残っている言葉があります。

「私が今日この満月の日にこの場に来た意味がなにかあるのよね」

人生はそうやって意味づけしていくことだと思いました。
どんなに嫌なことがあっても、つらいことがあっても、生きていれば絶対正解にできる。

だって生きてるわけで、最悪の状況は逃れられてるんだからそれだけでラッキーだよね。

これから進んでいく道

私はあさってから社内コミュニケーションのコンサルティングをしている会社で働きます。
1か月インターンをして、社員さんとも交流して、去年の3月5日に内定をもらい、そこで私の就活は終わりました。

それから1年、多少の迷いもありましたが、いまでは内定をもらったときよりも内定先が好きになり、自分に合っている仕事だと思っています。

フリーランスになりたいだの海外で働きたいだの言ってましたが、いまの私にその働き方は合わないと4年を通してわかりました。

高校生のころからパンツスーツが似合うバリバリのキャリアウーマンになりたいと思っていたので、事実だけであればその夢はかないます。
そして、中身も伴うかっこいいバリキャリを目指して働きます。

外部で活動しているミライエおせっかいジャパンブログなどは続けていきます。世界を広げてアンテナを張り続けるという私の好きなことであり、それぞれでやりたいこともあります。
きっとやりたいことは変わっていきますが、生き方はぶらさずに進んでいきたい。

大学生活は何色?

さて、冒頭の大学生活の色の話ですが、返ってきた答えは

透明でした。

そのときの私は透明は存在がないから、もし、ふつうの大学生活を過ごしていたら無意味なものになると思っていました。
なんで無意味な大学生活になってしまうんだろうと考え続け、私は大学生活に色を付けようと考えてました。

でも透明ってそういう意味ではないことを知りました。

光がその物質をよく通り、すきとおって見えること。「―なガラス」「無色―」「半―」。比喩的に、物事(が隠されず、そ)の見通しが明らかに分かること。

だから、いまの私でもやっぱり透明と答えると思います。


これからも笑顔と感謝を忘れずに、自分の信じた道を歩んでいきます。



ちょっとでも、あなたの心にひっかかったら。