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①命題

既知の事柄を前提(premise)とした上で、未知の事柄に関する結論(conclusion)を導き出すことを推論(inference)と呼ぶ。

また、2つの情報を関連付けることで、そこから結論を必然的に導き出す思考法の事を、演繹法とよんだりする。

たとえば、推論とは、

たとえば、P「太郎は頭が悪い」という情報から、Q「頭の悪い人がいる」という推論が導けるだろう。
先の文を、簡単に「PならばQ」と置き換えることにする。これは、Pを前提とする時に、Qが必ず成り立つといった形式を持っている。

あくまでも、Pが成り立つならば、必ずQが成り立つという事であり、この関係性が「逆」になった場合、Q「頭の悪い人がいる」という前提から、P「太郎は頭が悪い」が導出される事は意味していない。頭の悪い人が居たとして、必然的に、それが太郎であるかどうかは分かり兼ねますね。こちらは蓋然的。

では、演繹とは、前提と結論の真偽が必ず結論と一致することを意味するのだろうか。
そこで、Pの情報が偽であり、Qの情報も偽である場合が成り立つのかどうかを考えてみましょう。
Pが偽の場合、つまり、P「太郎は頭が悪い「ではない」」ならば、Q「頭の悪い人がいる「ではない」」といった結論は導かれるのでしょうか?
答えは、「ノー」です。太郎が頭が悪くないとしても、他の人が頭が悪い場合が存在します。これを「裏」と言います。

もう一つ。Qが偽であるならば、Pも偽であるのか、という場合について考えてみましょう。Qが偽であるときに、つまり「頭の悪い人がいる「ではない」」の時ならば、Pが偽である事「太郎は頭が悪い「ではない」」は成り立つのでしょうか?答えは「イエス」です。これを「対偶」と言います。これはある法則によって、「妥当」である事が保証でされています。

また、より正確には、推論とは、前提に相当する有限個の、n個のA¹、A²、A³…がすべて真にであるような任意の解釈において、結論に相当するBが必ず真になるという事をいう。

たとえば、

P:学生はみんな勉強をする
Q:太郎は学生である
ゆえに、
R:太郎は勉強する。

といった、2つのP,Q理由同士の連関から、結論Rが導かれるような文構造を、「三段論法」と呼ばれる。また、これを自然数に応用すれば、上記で述べた、n個の前提から成りたつ、ドミノ式の数学的帰納法と呼ばれるものとなる。

ここで、「PならばQ」に対応する、
「逆」「裏」「対偶」の各写像を下記に図示した。ぜひとも参考に。

図1.1:条件法の真理関数

※pやqの記号の上についている「線」は「¬」と書き、「否定(つまり偽)」である。という意味があります。「pではない」と書くときには、「¬p」と書きます。


以上の通り、元々の文が妥当であるならば、「対偶」は必ず「妥当」に成り立ちます。が、「逆」や「裏」は必ずしも「妥当」である、とは限らないのです。

論理学で、ある推論が「妥当」である、と言えるためには、前提が「正しい」ときに、必ずその結論も「正しい」と言えるための橋渡しが上手くいっているのかどうかという点に注目します。

以下に、「妥当」についての定義を述べる。

妥当な論証とは、その前提がすべて真であるようなあらゆる場合に、その結論も真になるような論証の事である。

引用元:「形式論理学/その展望と限界」リチャード・ジェフリー/訳:戸田山 和久

つまり、前提をすべて真だと認めたら、どうしても結論も真だと認めざるえないような論証が妥当な論証という事だ。逆に、前提をすべて真なのに結論が偽になるような場合を「反例」と呼ぶ。


ところで、この定義を実際に当てはめてみようとするときに困ってしまうのは、そこで言われている〈場合〉とはなんなのかはっきりしないことと、あらゆる場合を、もれなく考慮するのが難しいことによる。


このようなコメントがありました。

A氏「馬鹿ならば卒業できない、卒業できないなら馬鹿レベルの誤謬やばいじゃん、でも自然にありそうな文脈やな」

B氏「馬鹿ならば卒業できないはいい例文にならないよ。勉強しなければ、卒業できない!のほうがまだいいね」

B氏の意見は、妥当性を判断できるものは「命題である」必要があり、それ以外はそもそも判断の対象ではない、といった立場からの主張であった。

対して、A氏は、すでに、教科書の中に「馬鹿」といった文言が含まれているものがあるから、とりわけ、(厳密に命題であるかどうかはさておき)例題として扱うべきだ。
といった論調である。


以下に、命題の定義を示す。

命題とは、「客観的に正しいか正しくないかが判断できる主張」の事を意味する。

引用元:中内伸光「ろんりと集合」

要するに、”誰がみても「正しい」と判断できる主張”あるいは、”「正しくない」と判断できる主張”の事である。前者の主張を「真」である、といい、後者の主張を「偽」である、と言ったりします。

例えば、「太郎は馬鹿」という、文があるとし命題である条件を満たすためには、より客観的に馬鹿であると判断するための情報を提示すべきでしょう。

なぜなら、なにをもって「馬鹿」とするかはその人によって全然違うでしょうし。

また、論理学において「真(その命題が正しいこと)」、あるいは「偽(その命題が間違いであること)」、は、論理的観点からのみのものであり、現実世界における真偽とは関係がない。

また、現実世界における性質の真偽は本書では、「健全性」と呼ぶ。

健全性の定義を示す。

健全な論証とは、妥当であり、しかも偽の前提をもっていない論証である。

引用元:「形式論理学/その展望と限界」リチャード・ジェフリー/訳:戸田山 和久

結論が真であることを保証してくれるのは,論証が健全であるということだ.単なる妥当性だけではこのような保証を与えられない。前提の中に偽の前提が紛れ込んでいれば,論証それ自体が妥当でも得られる結論が偽になることはいくらでもあるからだ.また逆に、ただ単にすべての前提が真だということだけでもある。論証が妥当でなければ,真の前提から出発しても偽の結論が導かれてしまうことがある.

引用元:「形式論理学/その展望と限界」リチャード・ジェフリー/訳:戸田山 和久


ところで、「真理関数的な」論証では、この困難は最小限にとどまっている。そこでは、〈あらゆる場合〉というのはただ単に、前提と結論を作り上げている文のそれぞれの真と偽を割り当てる考えられる限りのさまざまな組み合わせにすぎない。
こうした論証の範囲内では、論理学の目標はたやすくそして完全に達成できる。
というのは、まったく機械的な手続きによって、論証が妥当かどうかを決定することができる。妥当を定義すると同時に非妥当も定義するのである。

しかし、空想上の例ばかりを用いていると、端的な真偽について語っているとだということを見失いやすい。
そして、限定なしに現実世界における端的な真理について語るとき、それを「健全性」と呼ぶことにしよう。


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