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火食(kashoku)前編1

上古、屍人と火食をともにする「黄泉戸喫(よもつへぐい)」と呼ぶ風習あり。それはやがて、「死者と火食を共にするとあの世に連れて行かれる」という畏れを生んだ…。
「心得無き者が冥界の住人と寝食を同じくしてはいけない」という戒め。触穢の定に通ずる。

神傾け

「なんぞぉあれは。……がいなのぅ。ありゃぁもういかんぞ」
 現場に向かう軽トラックの助手席で、男はフロントガラスの向こうを指差しひとしきり嘆いた。隣でハンドルを握る男の息子も、前を覗き見ている。息子は今年で33歳、まだ独り身でいる。無骨な横顔を見せる父親は、そんなことは全く気にしていない風ではあるが、早く孫を抱きたいと密かに息子の妻帯を願っていた。
 男の仕事は「庭師」。定かではないが、息子で5代目を数える。いつの頃から生業としたか、本当のところはわからない。それでも江戸の頃から続く庭師を、明治・大正・昭和・平成・令和と続けてきたことを男は誇りにしていた。
 地元の農業高校に進み園芸科を卒業した息子と共に、雨で足元が悪い日以外は毎朝現場に向かう。そうしてもう、何十年になるだろう……。常日頃から、界隈の樹々には気を配っている。

 それにしても今朝、男の目に映った光景は異様だった。

 男が指差す方角に目をやり、息子は息を呑んだ。
 山が燃えていた。

 長年見慣れた里山の一角が、紅蓮の炎を上げて燃えている。
 いや、燃えているように見えたそれは、美しく緑の濃淡に彩られた中に吹き上げる紅蓮の炎のような、時せず紅葉したひときわ高い檜の梢だ。
 松山市内から国道11号線を東へ走る。左右に山が迫りながら続く道後平野は、県下で最も大きな扇状地である。南北よりも東西に長く伸び、内海に面した工業地帯とお城下と呼ばれる県央部の商業地帯とを繋ぐように、東に向けて緑豊かな穀倉地帯とベットタウンが広がっている。そんな田園地帯の最奥は桜三里と称する峠道となっており、ここを抜けると、かつて太平洋ベルト地帯と呼ばれた県下の重工業地帯へと国道は続く。
 桜三里などと雅な名で呼ばれるだけあって、深い渓谷沿いの国道端には桜並木が続くが、さらにその向こうには深く険しい四国山系の山並みがその懐を見せている。そんな谷間にも時折集落は見えるが、たどり着くのは容易ではない。なぜなら、次から次へと現れるトンネル脇に集落へと続く道はあるが、桜や渓谷に見惚れるうちに通り過ごしてしまうし、道を過たずとも、思いのほか集落までのワインディングロードは長い。そんな脇道の一本に入ると、やがて見事な瀑布にたどり着く。
 県下の景勝地に数えられるほど見事な瀑布だが、観光客などはまばらで、普段は遠足で訪れる小学生か野猿くらいしか見当たらないが、大寒の頃ともなれば滝は俄かに賑やかになる。なぜなら霊峰・石鎚より湧き出る清流が、吹き降ろす山の冷気に氷柱と化し、瀑布は雪と氷の一大パノラマを演出するからだ。この雪と氷が創り出す芸術的なシーンを切り取るべく、プロ・アマ問わず地元のカメラマンが集まってくる。そんな美しい渓流を背に、わずかに残った老人たちが肩を寄せ合うようにして暮らす集落がある。
 奥の院と言えば聞こえは良いが、山中の寂れた社には、お祭りでもなければ人が集まることはない。それでもこの小さな社には氏子たちが誇るご神木があった。
 そんな自慢の、樹齢800年を超す檜のご神木が枯れた。
 今でこそ寂れているが、かつて林業が盛んだった頃には3000人ほどの人口があり、祭はもとより、集会や子どもたちの遊び場にと、一年を通して境内は賑わっていた。
 夏休みのラジオ体操には、子どもたちが集まってきては木々の根元に空いた蝉穴に糸を垂らし、這い登ってくる蛹に歓声し、茅の輪くぐりにかこつけた夜遊びに黄色い声が響き、初詣ともなれば、恥じらい気味の晴れ着が境内を彩ったものだ。
 昭和の中頃、日本は高度成長期を迎えた。市街の賑わいが集落に及ぶにはそれなりの時を要したが、それでも大抵の家には子どもたちが居て、夜ごと賑やかな夕餉が繰り広げられた。しかし右肩上がりに拡大する都市型経済は若い労働力を吸収し続け、見る間に集落の若者たちはその姿を消した。そうして村は年寄りたちが肩を寄せ合う音の無い集落へと姿を変え、いつしか「限界集落」と呼ばれるようになっていた。
 そんな今でも年に二度、夏越しと新嘗祭には麓から宮司がやってくる。この日ばかりは、集落のあちらこちらからまだ足元の明るい者が集まってきたし、わずかだが若者たちも町から戻って来る。今やどれほど居るか定かではない氏子の、それでも総代を名乗りお宮の管理を任される者にとって、この日ばかりは気持ちの逸る晴れやかな日だった。

 それは総代にとって、いや、総代に任せきりにしていた全ての氏子にとって、まるで悪夢を見るような恐ろしい光景だった。
 およそふた月ほど前からご神木の様子はおかしかった。

 そろそろ田植えの準備に取り掛かろうかという頃、日一日と山が緑に彩られる中、その一点だけが緑を薄くして行く。見る間に薄い緑は赤へと色を変え、幾人もの氏子が総代を訪ねて来るようになった。
 濃い緑の里山に、一点晴れ渡った空に突き上げたひときわ高い梢が聳えている。
 それは氏子たちが見上げるたびに指を差し、そこに誰か居るかのように言葉をかけ愛でてきた檜のご神木。
 そうして親が子に伝え、子が親に尋ねたご神木が、緑の山に吹き上げた紅蓮の炎のように真っ赤に立ち枯れたまま、おりからの南風にゆっくりと揺れていた。
「……これはもうイカンぞ。可哀相やが寝かすしかないで……」
 狭い境内の端に軽トラックを乗り付けた庭師は、車を降りるなり声を上げた。
「……あんた、誰ぞな?」
 立ち枯れたご神木の前で腕組みをする初老の男が、振り向きざまに怪訝な顔で声を返した。
「あぁ。わしかえ。わしは沢ノ内の大加賀いうモンよ。ちぃと庭の方の仕事しとってな、今朝方こっちに向こうて走りよったらこの木ぃが見えたけん寄ってみたんよ。それにしても、……これはもういかんやろ……。なんでこがなことになったんで」
 男が見上げた檜の巨木は、山裾を吹き渡る初夏の湿度の濃い風に、カサカサとまるで老婆が両の手の平をこすり合せるような音をさせながら赤茶けた葉を揺らしている。
「……いかんかエ」
 この集落の辺りを里山と呼ぶのは、重藤村と沢ノ内村とが合併してできた町だ。男が「沢ノ内」と名乗ったことで、総代は得心がいったのだろう。要するにそれは、見知らぬ者とはいえ他所者ではないという証だ。加えて大加賀と名乗る男は、自らを庭師と明かした。庭師ならば、立ち枯れたご神木を見てそ知らぬ振りが出来るわけがなかった。
 しかし得心はしたが問いには答えようとしなかった。 
 どうしてこんなことになったのか……。このところ総代が、寝ても覚めても他のことなど考えられないほどに考えあぐねていたことだ。

 大人4~5人でも抱えられそうにない逞しい幹を前に、腕組みをする二人が揃って溜息を零す。
「……いかんか……。なんとかならんかのぉ……。」
 総代を名乗る老人は、腕を組んだまま首を落とす。
 逞しい幹に廻した七五三縄が痛々しい。この七五三縄も、締め込む際はこの老人が差配した。無残にも立ち枯れた檜の巨木を前に、その瞳は力を失っていた。
「お祀りしとるんはクグノチさんかえ。それともヒメさんかえ」

「ん?……姫さんやが」
「ほうかえ。ほしたら、精々姫さんらしゅうお祀りせないかんな……」
 生業として「木」を知る男と、神木として「木」をお祀りしてきた男が口にするそれは、古の教えが伝える二柱の名前。
 久久能智、または句句廼馳と記される神は、イザナギ・イザナミの「神生み神話」に登場する古き神の名であり、木花咲耶比売、または木花之佐久夜毘売と記される女神は、同じくこの国の神話に登場する木と花の神の名だった。
 キリストや仏陀ならまだしも、八百万(やおよろづ)と数えられる古き神々の名を諳んじている者など、それだけで奇異の目で見られるかもしれない。或いは物知りと呼ばれる者ですら、普通「木の神様」と言えば迷わず「コノハナサクヤヒメ」と言う。「大加賀」と名乗る庭師は、コノハナサクヤヒメに先んじてクグノチと口にした。もしかすると、腕のほうも達者なのかもしれない。 
 そう思う老人の口から、泣き言にも似た言葉が飛び出した。
「なんとかしてやれんか……」
「言われるまでもない。なんとかならんか思て足を伸ばしたんじゃけん。ほやけど……これはもういかんやろぅ」
 突然現れた見知らぬ男に言われるまでもなく、そんなことはとうの昔に分かっていたことだ。それでも老人は、毎日足を運んでは、日がな一日御神木の前で過ごしている。そして今朝現れた、大加賀と名乗る木を知る男から、改めて宣告されてしまった。先ほど庭師が口にした「寝かす」とは、彼らの言う木を伐り倒すことだ。それは総代にとって、死刑の宣告を告げられたのと同じことだった。
 庭師の名前は大加賀剛。何代目になるか定かではないが、物心着く頃には父も祖父も庭の仕事をしていたし、中でも祖父は近在で知らない者は居ない目利き腕利きとして名を馳せていた。そんな祖父と共に仕事をする父を見ながらも、若い時分は好きな車を仕事にしたいと願ったこともあったがそうはならなかった。

 好きな車の仕事に付くのを諦め、祖父や父の後を継ぎ庭師を生業としたのは、名人として名の知れた祖父を見送り、新たにその名を越さんと精進する父を前に幼稚な反逆をしてしまった青年・剛に父が告げた一言だった。


『火食・前編1』終わり
『火食・前編2』に続く

column 神傾け

「傾く」とは、古来、神に等しい何者かの命が危うい状態を意味する。故に「傾ける」とは、それを意図して計るという、恐ろしい行為を指す。


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