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巳午(minma)㉙

第六章 銀門7

前鬼後鬼

 キッチンを覗くと、いつになく早い時間に帰宅した美由紀が座っていた。得意先回りか何かを上手くやっつけたのだろう、いかにも余裕といった感じでタバコを吹かすその向こうで、義母が立ち働いている。
「おっ、早いじゃん。どうしたのかな? 今日は飲み会とか無いのかな?」
 それでも気を遣っているつもりの健作が、美由紀のしたり顔を軽くくすぐる。
「なによぅ、毎日飲み歩いているわけじゃないわよ。今日は、立ち寄った先がウチの近くだったから、そのまま帰ってきちゃっただけですぅ」
 一見抗議のようだが、美由紀はまんざらでもなさそうに口を尖らせる。子どもの頃から美由紀は、機嫌が良いと口を尖らせてしゃべる癖がある。
「なんだか妙な感じじゃない。なにかあった? 喧嘩でもしたの?」
 さすがに姉妹だけあって、いつもと違う姉の様子を察知するらしい。
「えっ、あなたたち喧嘩したの?」
 配膳を手伝おうとした健作を、不安そうに母が覗き込んでいる。
 母が得意の鶏肉と里芋の煮物が食卓にあらわれ、いつもと同じ女所帯の賑やかな夕食が始まった。健作は、そんな普段通りの平和な食卓を囲んでいることに、何とも言えない違和感と軽い後ろめたさを感じた。
 今日はニュースになるような不幸な事故が起きたのだ。それも、親しかったわけではないが、つい先日も会ったばかりの人間が自ら死を選ぶという人生初めての経験をしたばかりだ。そして、二人はこれから、そんな不幸な事故の原因を、どんな危険があるかもわからないまま究明しようとしている。
「お母さん。今夜は遅くなると思うけれど、気にしないで先に寝ててよね」
「あら、そう」
 と言ったきり何も言おうとしない母の隣で、美由紀が二人を見つめている。
 食事を済ませて部屋に戻った二人は、深夜に及ぶはずの外出に備えて身支度を整えた。まだ雪は降っていない。南国というほどではないが、温暖な内海と峻険な四国山脈に挟まれた平野部は、積もることの無い雪がひと冬で二~三回も降れば良い方だ。それでも今夜は、いつ降り出してもおかしくない程に底冷えがする。風は無い。耳を澄ませても木枯らしの気配は無い。オーディオの液晶が7時を指していた。
「用意はいいか? そろそろ出ようか?」
「いいわ、行きましょ」
 振り返ったそこには、若い頃に買ったのだろう、年代ものの派手なスキーウェアを着込んだ明美がにこりともせず立っていた。実家に残っていたのだから、結婚する以前のものに違いない。手袋をした左手でポケットを押さえている。ポケットには黒玉が入っているのだろう。話し合った結果、まずは『蛇の淵』へ向かうと決めていた。健作は、東京から持ってきたトレッキングシューズを履き、明美も下駄箱の奥からやはり若い頃に履いていたのであろう紛いもののブッシュブーツを引っ張り出している。そんな二人が見合うような格好で、互いの身支度を確認していると廊下に美由紀が現れた。
「やけに重装備ね。……無理しないでよ。お母さんには黙っとくけど、私は待ってるからちゃんと帰ってきてね」
 美由紀はそれだけを言うと、奥に引っ込んでしまった。
 父の葬儀の後に披露したリーディングこそ知ってはいても、この間に起きた一連の出来事は知らない美由紀だが、それでも姉の微妙な変化で何かを察知したのだろう。これから想像を絶する調伏に挑もうと、緊張感を極限まで張り詰めた明美にとっては願っても無いエールだった。
 玄関を開け、三歩ほどの庭を横切り小振りの和風門を潜り表通りに出ると夜空を見上げた。
 冴え冴えとした冬の夜空には満天の星。東の山の頂近くに、中天を目指す大きな月が浮かんでいる。明美は三輪山中から見上げた夜空を思い出し、「ほぅ」と小さく息を吐いた。息が白い。隣で健作は、義母から借りた車のキーを、チャラチャラと小さな音を立てながら指先で弄んでいる。健作の吐く息も、白く霞んでいる。
「さてと……このまま(蛇の釜へ)向かっていいのかな?」
 イグニッションキーに手を掛けたままの健作が前を見据えて問い掛ける。蛇の淵が決戦の場になるであろうことは意見が一致していたが、まだ月食には時間がある。健作にしてみれば、それまでの時間を、果たしてあの山中の渓谷で過ごすのかどうか確認しないではいられないのだろう。
「まずは理沙ちゃんを助け出さなきゃ……。昨日行ったお寺に行って。そこで理沙ちゃんを助け出してから蛇の釜に行くわよ」
 助け出す。昨日訪ねた時は途中で前に進めなくなった明美が、今夜は「助け出す」と言い放った。それほどの自信がどこから来るのか? 何が明美を変えたのか? ハンドルを握る健作には知り得なかったが、明美の横顔には、そんな質問すら許さない強い意志が感じられた。
 ほとんどが立ち枯れたみかん畑を過ぎると、頼り無いセメント舗装の山道は離合できないほどの幅に狭まり、左右をまばらな木立が遮り始める。それでも、時折途切れる木立の合間から、若者たちが肝試しに興じる曰く付きの溜池の向こうに50万都市のさんざめきが垣間見える。
 参道の入り口、門扉の無い山門前のスペースに車を停めた。一人車を降りた明美が車の四方に盛り塩をしている。ほどなく助手席に戻った明美は、昨日と同じ光明真言を認めた小さな和紙を差し出した。
「信じているかどうか知らないけど、口に出さなくていいから、騙されたと思って真剣に唱えてて」
「わかってるけど……。どうするんだ? 俺も一緒に行くんだろ?」
「健作はここに居て。今日は一人で行くわ。その代わり健作は、私が戻るまで、この結界を守っていてね。それには、この真言を唱えていてくれないと駄目なの」
 一人残され、不安に苛まれる健作に、明美は優しい嘘をついた。本当は、アレらがその気になれば盛り塩の結界や付け焼刃のマントラなど、どれほどの効果も望めない。ただ、これから始める少女の救出に、健作は邪魔だった。という明美ですら、今回のような調伏は初めてだ。押し寄せる不安は拭いきれないが、ポケットに忍び込ませた黒玉が明美を守り、戦う力を授けてくれると信じるしかない。明美は、両の掌に残る紅い戒めをじっと見つめ、ポケットに忍ばせた黒玉の重さを確かめると山門を潜った。
 車を降りた時にも感じたが、山門を潜った途端、アレらの棲み処に足を踏み入れたことが明美にはわかった。辺りに巣食う見苦しきモノどもが、たちまち触手を伸ばしてくる。山門の外と内とで寒さまで違う。足元の砂利が、まるで霜柱を踏み砕くような感触と音を立てる。吐息が鼻先でパリパリと音を立てて固まっていく。あれほど明るく夜を照らしていた月明りが、両脇に聳える古杉に遮られ、足元も覚束ないほどに暗い。
 重く暗い参道に、明美の足は遅々としてきた。思わず潜ってきたばかりの山門を、車の中でこちらを伺っているはずの健作を求めて振り返っても、そこは墨を流したような暗闇で、山門の輪郭すらも定かではなかった。
 すると、「ボゥ」と音も無く前方の闇にオレンジ色が灯った。見る間に灯火は色を増し、辺りの闇を追い払う。

『仕方ないの。ワシらがフタオニ(二鬼)となろうぞ』

 祖母の声だ。
 ゆっくりと、闇に染み出すように祖母の小さな背中が現れる。手を伸ばせば触れそうな祖母の肩の向こうに、祖母が無造作に突き出した右手の指先に仄かな明かりが灯っている。祖母の履く下駄が、参道の砂利を踏む音まで聞こえてくる。
 振り返るとそこにも一人、曾祖母の俯き加減に歩く姿が間近にあった。不安に怯える明美の前後を、祖母と曾祖母が鬼に変じて守っている。
 明美は、左手でポケットの重さを確かめると、少し足取りが軽くなった。

善鬼護鬼

 やがて前方に月明かりに照らされた本堂が現れ、その左手に三重の塔が見えてきた。見事な相輪と四隅の反り返った最上層の屋根が月明かりに輝いている。意味もないのに、気づかれてはと砂利を踏む足が緊張する。
 閂も無いくたびれた扉を開くと、暗がりの向こうに蠢く気配を感じた。二度、三度と、漆黒の塊が明美に迫っては来るが、その都度、前後に灯した祖母と曾祖母の光に阻まれ虚しく引き下がっていく。同じく闇の向こうで、漆黒の塊がぶつかっては翻り、ぶつかって来ては翻りを繰り返している。それでも二鬼の作った慈しみのヴェールはビクともしていない。
『大丈夫、ばあちゃんが守ってくれてる』
 意を決して奥へ進むと、突き当たった隅の一角に、そこだけ墨を薄めたようなまだ柔らかい気配が、ゆらりと立ち昇るや明美の首筋の辺りに吸い込まれていった。そうして取り込んだ塊を、明美は胸の辺りに、まるで吐息のような温かい揺らぎを確認すると、今度はそのまま踵を返して一目散に、今にも閉じようとする扉を押し開けて外に踊り出た。

『さぁて、ここからは時との戦いじゃ。すでに銀門が開き始めておる。開き切ってしまうまでが勝負じゃぞ』

 三重の塔から明美が飛び出すや、背後で音をたてて閉まった扉の前に、後ろにいたはずの曾祖母がうずくまり、背中を丸めて手を合わせている。結束の法で、扉に戒めを施しているのだ。ただ、そんな曾祖母の戒めとて、どれ程の時間も稼げはしないだろう。ほどなく破られてしまうに違いない。明美と思いを同じくする祖母の歩みも早くなっている。そんな二人の勢いに、参道に伏した邪鬼どもが汚らしい手を伸ばしてきては驚き引っ込めている。
 明美は、黒玉の入ったポケットを左手で押さえながら、行く手を阻む魑魅魍魎の触手を引き千切る勢いで、激しく上下する祖母の灯火だけを目当てにひた走った。
『……ここからはアンタ一人ぞね。さぁおいき』
 勢い余って山門を飛び出すと、懐かしい母の車と、フロントガラスに顔をくっつけんばかりに突き出した健作が居た。振り返ると、祖母の姿もオレンジ色の灯火も無くなっていた。
「よかった! 明美、無事だったんだな。……上手くいったのか?」
 そう言って明美の両肩にかけた健作の手から、きつく握り締めた小さな紙片が落ちた。
「……なんとかね。ばあちゃんたちに助けてもらったから……」
「理沙ちゃんも無事か?」
「今は私の中に居るわ……」
 車から降りて来ようとする健作を制して、明美は掌を顔の前で合わせ「ホウッ」と力強く息を吹き込み、音を立てずに二度手を打ち鳴らし瞑目する。すると、少し前に傾いだ明美の後頭部の辺りから煙のような、靄のようなものが立ち上り、助手席の少しだけ開いた窓から夜空に舞い上がって行った。そして明美は、まるで旋風に吹き上げられて舞い上がる綿雪のような白い靄に向かって「頑張って! 」と小さく囁いた。
「なんだよあれ! なにか、明美の背中から出て行ったぞ!」
「これでいいの! それよりも、早く車を出して! 早くしないと追いつかれちゃう!」
「なんだよ、それ!」
 エンジンを掛けたままの車は、乱暴にバックギアを入れられ悲鳴を上げながら山道に突っ込み方向転換したかと思うと、そのまま勢いをつけて山を下り始める。走り出す瞬間、黒い影が山門を飛び出すのが見えた。もう少し車を出すのが遅れていたら、陽炎たちに囲まれていたかもしれない。
「やったわ、健作。……理沙ちゃんを助け出したわよ!」
 やや興奮気味にそう告げると、明美はポケットから黒玉を取り出して掌にのせ、改めて見つめた。
「……温かい。それに、なんだか光ってるような気がする……」
 ハンドルを離す余裕などないが、それでも明美の掌にある黒玉が、微細に律動しているのがわかる。何が起きているのか見当もつかないが、暗い車内は仄かな色味に照らされているように感じた。
『玉は魂の方舟ぜ。光の元へ行かんて覚悟を決めた、ぎょうさんの御霊が形を成して明美に委ねとるんぞ。粗略には扱えんのぉ……。一旦解いた戒めは、解いた明美が滅するまでは封ずることは叶わんじゃろぅ。方舟は函となり籠となりて御霊を守り、刃と成りて邪を滅する。後は耳を傾けてみよ……』
 妖しく明滅を繰り返す黒玉をみつめる明美の脳裏に、いつもの朱塗り箭しゅぬりや座敷で聞いた言葉と、それを告げる曾祖母の悲しげな表情が蘇った。もしかすると黒玉は、これから明美が繰り広げようとする戦いを援けると同時に、更なる戦いを明美にもたらすのかもしれない。それを知る曾祖母は、励ましながらも苦悶の表情を浮かべたに違いない。なんとなくだが、明美はそう理解し覚悟していた。そして、駆けつけてくれた祖母や曾祖母に感謝すると同時に、参道を駆ける最中に振り返り見た、塔の扉に戒めをする曾祖母の丸い背中を思い出し「大丈夫だろうか?」と案じていた。

『銀門7』終わり
『銀門8』へ続く


column 二鬼(前鬼・後鬼)

修験道の開祖ともいわれる役小角に従う二匹の鬼。役小角に使役される式神説の他に、弟子であったとか、夫婦鬼との説もある。いずれにしろ、役小角を守護し、時に応じて使役される人外のモノである。真偽のほどは測りかねるが、現代においても符合する話は少なくない。真印さんによれば、「役行者の故事になぞらえるのもなんですが、ほとんどの方に守護霊と呼んで差し支えない霊体がいらっしゃいます。それもお一人では無く、大抵は複数いらっしゃいます。その多くが血縁者だったりしますが、中には時代や人種を超えた方に守られている場合があります。あわや大惨事……なんてアクシデントが、奇跡的に無傷で済んだ。そんなお話は幾らでもありますし、どなたも一つや二つは思い当たるはずです」と言う。彼らが鳴らす警鐘を無視したりすると、思いもよらないトラブルに巻き込まれたりするらしい。ふと胸騒ぎを覚えたら、内なる声に耳を澄ませてみるべきかもしれない。

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