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吠声(haisei)2

毛物(kemono)


 気がつくと、男は板の間に敷かれた筵の上に横たえられていた。
 床下から這い上がる冷気が、極度の疲労に混濁した男の意識を鮮明にしていく。男の鼻腔を、なめした革のような匂いがくすぐる。どこかで微かに、ジーッと……。夏の夜、どこからともなく聞こえてくる、クビキリギスの鳴き声にも似た音がしている。
 目を覚ました男は、それまで何があっても離すことのなかった我が子の膨らみが胸にないことを知り、起き上がろうと激しく足掻いた。
「よいよい。安ぜずとも赤子は無事じゃわ。ほれ、まだ息をしておる」
 薄い筵に臥した男の頭のあたりから、野太い声が降ってきた。聞きなれぬ声の主は、横たわる男を見下ろすような格好で座っている。
 隣に眠る我が子から、引き攣れたような泣き声が止んでいる。男はわずかに頭を傾げて我が子の無事を確かめると、その頬に震える腕を伸ばした。息は整っている。しかしまだ、その小さな身体はかなりの熱と汗を吹き出させていた。
「それにしても、よう来れた……こんな赤子を抱いて。もう少し遅れておったら、赤子は助からなんだ。……案じずともよい。間もなく、この熱も下がるじゃろう。赤子の命は助かる……が、お前の命はまた別じゃ。赤子をずっと胸にしてきたお前の身体は、随分とやられてしもうたわい。その分、赤子の命は永らえたけどのう……」
 どうやら男は、ずっと胸に抱きかかえていた我が子から、邪気を浴び続けていた。それが赤子には、祓いにも似て良好だったが、代わりに男の身体は随分と冒されてしまっていた。
 気を失う直前に聞いた足音は、今、頭の辺りでしゃべる男の仲間だったようだ。気を失いはしたが、それでも揺れながら山道を上り下りした感覚が、まだ男の体に残っている。
 確かあの時、男は精も根も尽きようとする中で、小枝を踏み折る幾つかの足音を耳にしていた。
 灼けるように乾いた喉を潤そうと、熊笹の根元に光る水滴に釣られて腰を折ったさいに、そのまま熊笹の斜面に顔を埋めるように倒れ込んでしまった。そうして倒れたままに半ば気を失いかけたとき、どこからともなく現れた男たちに担がれて、この杣小屋に運び込まれたのだろう。
 男の住まう村とて、お城下辺りで訪ね歩けば十中八九は村の名すら上がるまい。また知る者は皆、眉をひそめるような鄙びた集落だ。それでも年に何度かは忌まわしい小役人がやって来て、若い者に兵役を説いて歩くが、まさかこんなところまで役人がやってくるとも思えない。そう言う意味でもここは「人外の里」に違いなかった。

『……辿り着けた……。本当にあった』
 男は俄かに広がる安堵とともに、そんなことを思いめぐらし大きく息を漏らした。
 果たして、この小屋に至るどの辺りから男と赤子は彼らの知るところだったのだろう……。
 偶然などとは思えない。おそらくは、男が力尽きるずっと以前から、男と赤子は彼らの監視するところにあったに違いない。もしかすると、それは男が村を出ると決意し、里山を踏み越え、不入とされる深山との境を越えた辺りからだったのかもしれない。

 およそ見渡す限りの深い山と原始の森には、この隠れ里へと向かうあらゆる方角に結界が貼られている。その無尽に張られた結界を、もしも透かして見ることができたなら、それがどれほど縦横に張り巡らされているかを知り驚くに違いない。山を越えれば越えるほど、森に踏み入れば踏み入るほど、足に易しい道程はぐるりと同じ箇所をめぐり、決してその内には入ってはいけない。さらに奥へと踏み入るには、ぐるりと回る幾つかの箇所に、とても踏み入ることのできない……と思わせる僅かな切所を踏み分けねば、古森へと分け入ることはできない仕組みになっていた。
 仕組みも知らずして、森の奥へ、古森へ踏み込める者など、そうそう居るはずがなかった。
 しかもそれとて、人を寄せぬ結界でしかない。それがあやかしの類ならば、寄り付くことすら叶わぬ強力なにより、越えようとした妖しを縊り殺してしまうほど強力な結界が張り巡らされている。

取り分け

 泣き喚く赤子と男の存在は、深山に分け入るずっと以前から知られていた。もしかすると、それは男が、途方に暮れた辺りからだったのかも知れない。ただ、男の思いが如何程か知れるまで、厳しい掟に縛られる者共には、果たして男がどこまで踏み入ることができるかこそが試しだった。
 それでも赤子を助けたい一心で、我が身の命も顧みず、境を踏み分け迫り来るさまに、いよいよ彼らを縛る禁忌を犯す決断をさせたのだろう。そうして男は、古森に分け入り言い伝えの集落へと辿り着くことが許された。
「さてと、取り分けはしたが……これからよのぅ。……よいかえ」
「おぅ」と、野太い声が辺りから応える。
 気付けば、さっきまで聞こえていた咒いが止んでいる。どうやら声の主が口にした「取り分ける」とは、泣き喚く赤子から、病とは異なる何かを取り除くことのようだ。
 それでも初老の男は動こうとせず、蹲り丸くなった背中から声だけを発して顔も上げようとしない。
 横たわった男が、やっとの思いで首だけを起こしてぐるりを見遣ると、見ず知らずの屈強な男どもが小屋の隅に佇んでいた。改めて耳を澄ませば、姿は見えないが、小屋の周囲にも沢山の人間が蠢くような気配が漂っている。

「ほうかえ、よいかえ」
 と、男の頭上でひと際大きな声がしたかと思うと、
「おうっ」
 と、幾つもの声が重なって応えた。
「……では」
 丸い背中が応えるのと同時に、「ヅッ」と鈍い音を発して、何かが稲妻の速さで走り抜けた。
「丑寅っ!」
 弾けるように、小屋の北東を塞いだ板戸が蹴倒され、赤子の頭ほどもある黒い影が飛び出して行く。つられて男たちが、これも同じく漆黒の口を開いた板戸の向こうへと躍り出して行った。
 それは瞬く間もない、瞬時の出来事だった。
 影のような塊と、それを追う男たちが飛び出して行った板戸の向こうには、それまで薄暗かった小屋を明るいと思わせる、底なしの闇が広がっていた。
 月光が射せば、山中も思いのほか明るい。
 雲ひとつ無い十五夜の森は、樹間から差し込む月明かりが下草を青白く照らし、日中とは一味違う幽玄の刻と景色が幻想的ですらある。そんな夜は、先走る風蟲かざむしも、白銀の森を転げるように翔けて行く。
 しかし今夜は、月も射さない漆黒の闇夜だ。
”……ケェェェン……”
”……ヲォォォォォォ……”


 墨を流したような夜の向こうから、人とも獣ともつかぬ不気味な遠吠えが聞こえる。それは、生物が発したというよりも、硬い石と石を打ち付けたのに近い。甲高く、哀愁を帯びた殸が長い尾を引きながら聞こえてくる。そうして少し間を置いて、また距離も方角も違う闇の中から、
”……ケェェェェン”
”……ヲォォォォォォ”

 と、まるで互いに呼び応えるような、人とも山犬ともつかぬ異様なこえが、漆黒の闇を渡って聞こえてくる。
 そして気づけば、男の隣に横たわる赤子の身体から熱は引き、真っ赤だった頬も緊張はほぐれ、さっきまでの苦し気な息遣いは静かな寝息に変わっていた。

 取り残された格好の初老の男が立ち上がると、そこに、さっきまでの背を丸めた老人とは似ても似つかぬ逞しい肢体の男が現れた。それでも男の顔を見れば、脂の抜けきった肌には幾筋もの深いしわが刻まれ、やがては米寿を迎えるであろう老人と思わせる老いが見て取れる。
「オビトよ、大きゅうござりましたな」
 おびとと呼ばれた老人の隣で、吹き出した汗を拭う壮年の男が口を開いた。
「……そうよのう。……狗には違いないが、あれ程に太るとは……。これは、どこかの筋に術の確かなモノが現れたに違いない」
「首よワシもあれ程に肥えた狗は初めて見ました……」
「わかっておろうな」
「はい。あれ程の狗、簡単に頸りはしませぬ。……今頃は、逃げるに任せて主の元へと走りおるはず。男衆はもちろん、本来ならば渡りに出る小若い衆にも追わせております」
 二人の物言いは、明らかに百姓が使うソレではない。と言って、武家の使うソレとも違う、聞く者にある種の畏れを抱かせる言葉遣いだ。

古き人(hurukihito)

 どうやらこの里の男たちは、さっきまで火が付いたように泣いていた赤子の病を病とはせず、彼らが「狗」と呼ぶモノのさわりとして祓ったらしい。
 祓いとは……。首と呼ばれる初老の男が唱える、不気味な呪文による「憑き物落とし」のようなものなのだろう。それも今夜が初めてではない。その証拠に、今夜は「狗」を「頸り殺す」のではなく、使役する者を突き止めるために逃がしたと言っている。
 首の常とは異なる申し条に、壮年の男は眉根を顰め、漆黒の闇を幾つもの殸が遠近しつつ遠ざかる気配に耳を傾けて大きく頷いてみせた。 時折闇を漂い来る殸が、二つ三つと重なりながら遠ざかっていく。

 古来、罪を贖うには「篭り」と「祓い」の二つの法がある。
 篭りとは、「禁固」「蟄居」など永年に渡る謹慎であり、祓いとは「退去」「島流し」など流刑による追放であり、更には「死」をもって罪を購う極刑もここに含まれる。このいずれもが、労務を伴う懲役とは違い、他との交わりを絶つ隔絶・根絶の法である。

 首がする祓いとは、泣き喚く赤子から引き剥がし取り分けた「狗」を、逃さぬように即座に狩る業である。だが今夜は違った。それどころか、首の手から逃がれた「狗」が、逃げ出そうとする方角を見極めるや、そちらの板戸を蹴倒してまで逃がしてやったのだ。
 そうすることで、逃げ込もうとする「主(術者)」の棲まう方角を見過たずに済む。そういうことらしい。
 狗は、丑寅(北東)の方角に飛び出した。どうやら主は、小屋から北東の方角に隠れ棲んでいる。里から丑寅と言えば……。道後平野の北に位置する高輪山の方角となる。従前とは違う強力な術を持つ犬神使いは、里と高輪の山を結ぶ何処かに潜んで居るに違いない。
「丑寅となればあれらですかな……」
「まだわからぬ。……が、あれらが伽羅より持ち込んだ蠱となれば、我らも備えねばならぬじゃろうて」

 狗は、自らを使役する主の居る方角を常に嗅ぎ分けている。何があろうと、そこが庇護を約する場所と知っているからだ。となれば、狗が逃げ出した丑寅の方角にこそ、この里の男どもが求める術者が隠れ棲んでいるはずだ。男たちの使命は、「狗」を駆逐することでは無く、使役する者を監視することだった。
 二人が話す「丑寅の方角」とは、まだこの国に定めらしき定めも無い頃に、海を渡って現れた、法師を名乗る一団の棲む辺りを指している。法師とは名乗るが、彼らが奉じるのは仏法などではない、蠱による呪法だった。
 そしてそんな法師らとは、これまでも何度となく暗闘を繰り返してきた。一度などは、遠く九州の果ての同族にすけてもらわねばならなかったほどだ。
 そこにまた、術の強き者が現れたのだとすれば万が一にも見逃してはならない。だからこそ男たちは、次に月が満ちる白銀しろがねの夜には渡りに出ねばならない小若い衆までも引き連れて、小屋を飛び出して行ったのだ。


 この里に暮らす男どもは、里人に障りや祟りをもたらす「人外のモノ」を狩ることを得手とする者たちだった。
 男たちが「狗」と呼ぶ、異界に棲む獣とは一体何を指すのか。果たしてそれは、村の者が忌み嫌う「犬神」なのか。村ではそれを、忌み嫌いつつも神などと併せ呼び畏れ奉るがここではそうではないらしい。
 犬でもなければ狐狸とも違う、ましてや神や神の使いなどであろうはずもない、狗と呼び蔑む異界の生き物でしかなかった。

 そしてその夜は、常ならば頸り殺してしまう狗の、常とは違う憎さげな体躯の凶悪さに、その因を探るべく生かしたまま闇に放った。
 しかし放たれたとはいえ、気儘に逃げ帰ることなど許されるはずもなく、さりとて深山に縦横に張り巡らされた結界に先々を阻まれ、結界と結界の狭間を抜けるしかない。それは、逃げ帰る先を労せず知る巧妙なからくりでもある。そうしてこの里は、これまでも結界を破る術を持たない者の侵入と逃散を封じてきた。
 赤子の父親は、そんなやり取りを耳にしながらここが伝え聞く「古き人」の里であることを確信し、まるで花が萎むように静かにその命を閉じた。

『吠声2・前編』終わり
『吠声3・後編』に続く

column 渡来人

皆様ご存じのように、日本列島には、大陸もちろんのこと遥か南洋の島嶼部からも、様々な種族が渡来しています。そうして現在の、ハイブリットな日本人が形成されたのです。物語の舞台である四国にも、歴史に記される以前から多くの種族が暮らしていたようです。
すでにお気付きのように、吠声を駆使する隠れ里の者とは、九州の南端に居たとされている隼人族をモチーフとしています。そして、この後に登場する渡来人は、愛媛県松山市界隈に暮らしていたとされる半島人(朝鮮半島)。大きく分類すれば、古墳時代に渡来したとされている伽羅人と、その後現れる百済人ですが、物語では最も古いとされている伽羅人を指しています。それは、今も市内各地で出土する朝鮮式の土器や萱(伽羅)町、唐人町(朝鮮の役で加藤嘉明が連れ帰ったとされている)などの地名に、その名残をみることができます。
そして古い半島人のなかには、後の仏法とは異なる呪法を奉じ、医事にも通じた巫堂(ムーダン)と呼ばれるシャーマンが少なからず居たとも……。


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