グリーフケアとしてのスピリチュアリズム

親しき人が亡くなるのは寂しい、悲しいものです。生きとし生けるもの、生まれた瞬間から死に向かっている。つまり死ぬために生きているといえる。しかし、人は親しき人を亡くして初めて死を身近に感じ、死を見つめる。死とは何かを考える。だらか悲しみが増すのではないか?だから苦しみに似た寂しさを感じるのではないか?

死後の世界はあるのか?あるとしたらどうなっているのか?必ず迎えることになる死について、なぜ人は知ろうとしないのか?一つの答えとして科学信仰によるものがあると言えるでしょう。科学で証明できないものは、思考するに値しない。科学が万能ではないにも拘わらず、科学が全てと信じている。それは霊の存在を信じているのと値するのです。どちらも万能、完璧ではないのです。

もう話すことは出来ない、もう一緒に笑うことも、食事することも出来ない。それについては確かに寂しい。しかし、たましいの存在になった故人はどう思っているのか?それはどのように亡くなったかによるのです。つまり、病気で苦しんで亡くなった方は病気の苦しみから解放されて、寂しさより自由を満喫することになります。

利他愛が自分も他者も癒やすのです。

遺された人は、故人に思いを馳せる。故人がたましいの存在で生きていると思えることで、思いを馳せることができるのですから、死とは無になることであるという持論を展開する人にとって、グリーフケアで癒やされることはないでしょう。

故人を思うあまり「幽霊でもいいから出てきて欲しい」つまり幽霊は怖がるモノではないです。見知らぬ幽霊も怖がる対象ではなく、浄化できずに彷徨っている、かわいそうな存在と言えるのです。なぜ彷徨ってしまうのか、余裕があれば興味をもって聴きたいものです。

親しき人の死は、遺された人のたましいの成長を促します。死を見つめて常に生きよ。明日100%生きている保証はない。今日の別れは、この世の別れかもしれない。そのように日々を込めて生きることが大切であると、スピリチュアリズムは示しています。

死後の世界はある。死後の世界はたましいの年齢に応じた差別界であると知ったならば、どのように生きるか、自ずと答えが出てくるはず。

「私利私欲を捨て、利他愛に生きよ」

しかし、私利私欲がないと肉体を維持できないので、そのバランスが大切であると、そのバランスに学びがあるとスピリチュアリズムは説いています。

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