葬儀の必要性

亡くなった人にとっても、遺された人にとっても葬儀というのは大切な儀式。現世で70年も生きたら、なかなかたましいの存在である自分を受け入れることは難しいものです。死後の世界の予習をしていない人にとってはなおさらです。ですから、必ずお迎えが来てくれて導いてくれる。有り難いシステムです。

特に事故などによる突然死の場合、混乱して自分の死を受け入れるのにかなりの時間を要する人もいるようで、事故現場で彷徨うことも多々あるそうです。葬儀というのは、自分の亡骸に対して遺族が納棺して花を供えている姿を俯瞰して見ることで、自分の身体とたましいが離れた状態であることを理解する。つまり火葬によって帰りたくても帰る身体がもうなくなることで、諦めることを学ぶ、肉体への執着を捨てることが出来る儀式とも言えます。

遺された側にとっても、死を受け入れて新たな生活を迎える準備、切り替えの機会とも言えます。何よりも喪主となれば、葬儀の準備や手続きなどで忙しく、理性的に判断することが求められる。忙しいことがグリーフケアにもなるのです。暇な時間が多いと無駄なことを考えるのが人間です。究極的に追い詰められたら、人間は逆に理性的な対応をすると言われています。暇や余裕があると、応えのない感情的な想い、悩みを巡らせてしまうのです。

肉体が荼毘にふされて、たましいは幽現界に存在する。親しい人に挨拶をしたり、自分の歩んできた人生を振り返る時間を過ごす。今一度、自分が生まれてきた課題を見つめることで、反省したり、成長を実感したり。一生懸命に生きてこなかった人にとっては、耳の痛いはなしであろう。しかし、「死はご褒美」と思えるくらい、自分の課題に向き合った生きた方をしてきたならば、自信を持ってあの世に帰ることができるのです。

立派な葬儀はいらない。親しき人とのお別れの儀式であれば、形式も関係ない。ただ亡くなった人があまりにも頑固で、エンディングノートにこだわりが書いてあるならば、その通りにされた方が、故人を尊重できるのでしょう。しかし、それも執着ですから、あとでご本人が反省することになります。

肉体も借り物、物質界にあるもの全てが借り物です。残るのはたましいに刻まれた経験と感動のみ。あの世で全てが明らかになるのですから、隠れてバレなければ良いという考え方は通用しないのです。逮捕を逃れて、議員活動をされている先生方も全てはあの世で明らかになるのです。ですから、私たちがずるいと思う必要もないのです。ご本人の学びがあるだけですから。逆に真理を理解している者として、その時は暖かく見守って差し上げるのが良いのだと思います。

天国の知人へ

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