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ゾンビの光 ①

[以前 別の場所にあったものです]

明日は日食ですね。

ここ最近、どんな感じでしょうか。
松村先生によると、
日食は分岐点みたいな感じで
線路が切り替わるタイミングのようなものらしいですね。

と、同時に
山登りの頂上のようでもあるから、日食当日までの数日間に、もうそのテーマ(頂上)に関係することが起きているはずだ。とのこと。

日食は身体的に
ポンヤリしやすくはあるけれど、
ちょっと気にしておくと
色々スムーズかもですね。

今回のブログが
日食に関係するのかどうかは
わからないのだけれど、
自分のバイオリズムを
後から見直すのに、何か役立つかもしれないのでちょっと書いてみます。

先日、相原あすかさんのブログに
平沢進さんが出て来たので
久々に聴いてみました。

あすかさんは
なんだかわたしの中の
見えなくなっていた扉を
次々に浮かび上がらせて、バンバン開けてくれてる。あけちゃう。

出会わせていただいて
(って言っていいのか…一方的にありがたいばかり、こちらが享受させてもらってばかりなのです)から、不思議なこと、
シンクロ的なことが続いています。

ほんとに、ただただありがとうございます。

******************

平沢進さんを
よく聴いてた時があります。

当時、もう20年以上前です。
今回に似た症状、
今回よりもっと酷い
全身の皮膚症状の真っ只中、 
占星術に初めて出会った頃です。

石井ゆかりさんが
本格的に活動される前でした。
どこで読んだかももう覚えていないのですが、
ゆかりさんが
呟きのような日記で書かれていたのか、Twitterだったか、全然定かではないのですが、
藤森直子さんの文章について
ほんとにチラッと語られていました。

検索するとサイトがありました。
藤森さんは当時、現役のSM嬢をされいて、その日記がメインのサイトでした。
(調べてみたら、サイトはまだありました)

SMの世界というものは、
自分にとってはすごく縁遠いもの、小説や映画のように
自分の現実には全く存在しないくらい、遠くて未知の世界でした。

しかも当時の自分は女性であり、
かろうじて20代でもあり、
ごく一般的で健康な状態であれば
ほんのちょっと重なるかもしれない部分も、全身ゾンビという壊滅状態にあったので、
遠くのどこかの
厳然たる現実・日常であっても、
うっかり自分に
「重なる、共感する」が、
出来ない状態でした。

そんな状態で出会った
その日記。その文章。
なんていうか
NAOさん(藤森直子さん)の
その眼差しが、その感性が
あまりにも澄み切っている。

やさしさと呼ぶにはあまりにも、
その「やさしさ」っていう
″音″や、その″匂い″みたいなものが邪魔で不似合いなんだけれど、
「やさしさ」
としか呼びようのないもの。
NAOさんの世界にはありました。
というか、
そんな世界そのものでした。

当時の自分は、
わりといきなり全身が
被曝した人のようになり、
いつ良くなるのか
全く先の見通しも立たず、
よくなるために奮闘した全てに
ことごとく期待を裏切られ、
身体だけでなくありとあらゆることがボロボロでした。

生きているのが精一杯すぎて、
このまま生きていかないといけないのだとしたら、しんどすぎて、幽霊かゾンビみたいな毎日でした。
文字通り、心身共にまんまゾンビ状態。

痒みでとにかく眠れない日々で、
眠れなすぎて朦朧として、
気を失うみたいに
途切れ途切れに
寝るっていうより、意識を失うことがある…
そんな日常だったので、
ネットを見ても、
全てを忘れさせるくらいの純度
というかパワーのあるものでないと、見続けられない。読めない。

そんな朦朧ゾンビ時代。
NAOさんが
日記の中で語っていたのか、
逆だったか忘れてしまったのですが、川上未映子さんの日記もゾンビ時代に読んでいました。

当時、未映子さんは
まだ歌手としての活動がメインだったのですが、その日常も文章もぶっ飛んでいたのです。
未映子さんの日記の中に
平沢進さんが出てきたことがきっかけで聴いたのが最初でした。

当時の自分には音楽にしろ、文章にしろ、圧倒的なパワーでその世界に連れ込んでくれるものでないと、
ゾンビ日常を忘れさせてくれるものでないとダメだったのです。
ビョークもよく聴きました。



他に当時読んでいた日記は、
死体処理をしている人の日記です。

人が確かに「人」であった時間から「モノ」になる。
それはどういうことか。
ただ淡々とその現実が記されていました。

ひとりの人間にとって、
ひとつの家族にとって、
漠然と大きなことに思えている「死」が、
彼にとっては日常なわけです。

しかも、その
「モノ」になってしまった人間は、そもそもそこに
「人」として生きていた時間も、
長く、誰ともしっかり繋がりを持てなくなってしまったような人ばかり。
亡くなってから、
とても長い時間が経ってしまっている人も多い。

「人」
として確かに
そこに存在していた部屋に、
「モノ」
というより
「巨大な生ゴミ」
みたいになってしまったその人がいて、彼はそれを片付ける。部屋も掃除する。

重労働であることは間違いない。
そして、彼は毎日それをやっている。それが彼の仕事。
日記には
彼の個人的な感情に関する事は
ほとんど記されていない。

ただ作業内容が記されているだけのその日記にも、その彼の日常、
その世界にも、
やさしさではあまりにも違いすぎる、だけどそう呼ぶしかないものがありました。

そして、
それ以外のものがない
と思えるくらいの清々しさ
みたいなものが、彼の日記の世界にはあったのです。

NAOさん、未映子さん、死体処理の彼。
共通するのは、それぞれの人がどうしようもなく孤独だったということかもしれないです。
未映子さんも当時天才すぎて、孤独な感じでした。

でも、それぞれみんな
孤独ではあるけれど、
それは心地よいことばかりではないけれど、それでも 
それをそれこそを好んだり、
楽しんだり、慈しんだりする、
どこにも嘘のない彼らの日々は
関わる人を
どこか確実に楽にしている、
してしまう
ことが伝わってきました。

そして、彼らの日記を追っていた
あの頃の自分も
生きるために必要な、
他の何かや誰かでは
決してもらうことのできない栄養や光をもらっていたのかもしれないなぁ…
ふと、思いがけずセミゾンビチック状態になった今思ったりしています。

セミゾンビ。。。

〈つづきます〉


20231014

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