『桃尻娘』を読まなかった話(ほぼ日の学校)

2020年のほぼ日の学校「橋本治をリシャッフルする」に参加するまで橋本治がどんな人か知らなかった私でも『桃尻娘』という本があることくらいは知っていた。
「桃尻」という語感から想像するに、何かイキのいい若い娘が出てくるちょっとエッチな話なんだろう…くらいの認識で、今思うとそれほど間違っていない気がする。橋本治の命名センスの賜物だろう。
この『桃尻娘』が小説家・橋本治のデビュー作だと知ったのも、講座に通うようになってからだ。

橋本治の著作は数が多い上に分野が広い。
近くの図書館に行って「作者 ‐ は」と書いていある辺りを探すと1冊か2冊は見つかるので、6冊完結のシリーズものに取り掛かるよりてっとり早い(ように見える)エッセイや対談から細々と攻略していた私が「桃尻娘シリーズ」を読もうと決めたきっかけは、第3回矢内裕子先生の講義で出された「いきなり最終巻を読んでみる」という提案だった。
シリーズ通しての主人公であるサカキバラレナではなくサメガイリョーコなる脇役が主人公だというこの本を最初に読むべき理由は色々あるのだが、魅力的に思えたのはこの巻が大人になった主人公から始まって章を追うごとに時をさかのぼる構造になっている所だ。
つまり、そこから5、4、3…と続けても良いし、いきなり第1巻に帰っても良いし、いっそ6巻で終わりにしても良い。何しろ完結しているのだから(と、私は思った)。

そう言えばいつから「シリーズ物は第1巻から始めて最終巻まで順番に読まなければならない」と思うようになったのだったか。
確か小学生くらいの頃は(私が生まれた年と『桃尻娘』の刊行年はかなり近い)今ほど大型書店や通信販売が充実しておらず、書店や図書館をフル活用してもシリーズものに穴があるのは当たり前だったはず。
最終巻から読んだって何の問題もない。

さっそく近所の図書館で借りてきた『雨の温州蜜柑姫』は、高階(旧姓=醒井)凉子30歳が自宅で暇を持て余している所から始まり、大学を卒業したばかりの醒井凉子20歳が港の見える丘を歩いている所で終わる。
読み終えた私がまず思ったのは「ニナ・リッチを検索しよう」だった。
「時代や世間に対する皮肉が効いていて面白いな」とか、
「『桃尻娘』から読み始めていたら醒井凉子というキャラにはあんまり愛着がわかなかったかもしれない」とか、そんなことも思わなくはなかったけれど、最重要事項はニナ・リッチである。

30歳で誘拐された娘を迎えに行った時も、20歳で恋のライバルだった(かもしれない)木川田源一くんと横浜に行く時も、醒井凉子はニナ・リッチの服を着て輸入車に乗っている。
ところが「ニナ・リッチの白地にドレープのたっぷりついたワンピース」なんて言われてもピンとこない私は醒井凉子がどんな恰好をして車を運転しているのかさっぱり分からず、座りの悪い思いをしたまま最終頁まで進むことになったのだから、実物を見ないことにはどうにもならなかった。

分かりやすくシャネルとかにしておいてくれればいいのに…と文句を言いながら検索して見つけたのは2020年のコレクションだったが、幾つかの画像でいきなり「あ、醒井凉子の服だ」と納得してしまったのだから橋本治の写生力には脱帽するしかない。
醒井凉子が着るならニナ・リッチだし、橋本治にはニナ・リッチを着る醒井凉子の姿が見えていたに違いなかった。
「橋本治をリシャッフルする」の中で「この人の頭の中はどうなっているんだろう…」と思う機会は何度もあったが、そのうちの一回がこの時である。

最終巻を片付けて次はどの巻に行くべきか…と考えていた矢先『桃尻語訳枕草子』を見つけたのでそっちに浮気していたら歌舞伎だマンガだ日本美術だと参考資料が積み上がってしまい『桃尻娘』には未だに手を付けていないが、いつかは読むことになるんだろうと思う。

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