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最悪で最高だった大学受験ストーリー:受験が変えた私の人生と受験生ママのサポートを決めるまで

「よく受かったものだ…」
今、振り返ると私の大学受験期は
激しいアップダウンの繰り返し
まさに”最悪と最高の繰り返し”でした。

数十年の前の昔話で参考には
なりにくいと思いますが、
”受験生のママのサポート”を
ライフワークにしていこうと
決めた私の人生が
受験でどう変わったのか
書き留めておこうと思います。

どんな家庭環境でも
例え親への意地であったとしても子供
強い想いを持てば進学は
可能だと思います。

ただ今考えると受験への意識が
狭く片寄っていために
しなくてもいい苦労もあったし
もっと違う生き方もあった
かもしれないと思うのです。

1 高3の時の受験勉強



「寝てる暇があったら
単語の一個でも覚えろ!!」
これが当時の受験生の常識でした。

”四当五落”という言葉を
ご存じですか?
睡眠時間が4時間の生徒は合格し、
5時間も寝てる生徒は
大学に落ちるというものです。

当時、通っていた大分の高校は
”受験戦争”と言っても
過言ではないような
大学の合格者数を北九州3県で競う
熾烈な競争の真っ只中で
高校生の私達は未来のバラ色の
キャンパスライフだけを楽しみに
ひたすら受験勉強に励む
”最悪”の毎日でした。

田舎ゆえに予備校も大手の塾もなく
学校での長時間の授業と補習の
繰り返しの日々。

”うだるような暑さ”
当時住んでいた日田という場所は
最近でも全国版のニュースになるほど
夏は気温が上がる場所です。

その酷暑の夏休み中でも
高3学年はお盆の数日以外は
6時間の補習で勉強勉強勉強の夏。
クーラーは贅沢品で
普通の家にもほぼ設置されていない当時、
配布されたプリントに汗が流れ落ち
成績もあがらず”最悪”の夏でした。

そして迎えた年末。
「早く正月にならないかな…」
楽しみでたまらなかったのが
元旦でした。

年末ギリギリまで補習があり
最後の調整という感じでの
勉強が続く中で
田舎では学校で直前模試が受けられず、
元旦に実施される模試を受けるために
友達数人と前日から福岡のホテルに
泊まる事になっていたからです。

初めての友人達とのお泊り。
しかも年末年始という特別な時期。
「最高じゃん!」
模試はあったけど
他の子も含めて異様な興奮状態。
元旦の朝にホテルで出してもらった
”おせち料理”がご馳走で感動したのは
今でもはっきり覚えています。
(さすがにお屠蘇はなかったけど)

2 入試本番での出来事


そして迎えた本番!
「はあ? 
    修学旅行先が共通一次試験場??」

今でいう”共通テスト”は
当時は”共通一次試験”と呼ばれ
近くで受験出来ない田舎の高校生達は
学校でバスをチャーターし
試験会場近くのホテルに
前日から移動して
宿泊して受験していました。

当時何かの事情で
本来ならば高2で
宿泊を伴う修学旅行が
あるはずなのに取りやめになり
日帰りで近所の
娯楽施設に行っただけでした。

学年単位の移動で宿泊を伴う活動が
”共通一次試験を受ける時”
だったわけです。
「何てつまらない高校生活…。
     最悪!」

でも共通一次試験では
予想外にスムーズに問題が解け
想像以上の高得点をゲット出来て
「最高!」となるはずが…。

最終的に願書を提出する志望校を
考えるときのネックに
なってしまいました。

この時までは家政学部に進学して
家庭科の教員になろうと思い
奈良女子大の家政学部を
狙っていました。
ところが、それまで考えてもいなかった
”お茶の水女子大”が
ギリギリ合格圏内に入って来たのです。

田舎者の私は関西の奈良女子大学でさえ
もし受かって入学したら
”都会”の暮しについて行けるか
心臓がバクバクでした。

”それなのに東京なんて!”
「どれだけ怖いか分からない」
   という気持ちと
「やってみたい。行ってみたい」
   という葛藤で
二次試験準備どころではありません…。

最終的に経済的な事情もあり
結局、出願校は奈良女に決めたけど
時間を無駄にしてしまったのは最悪。

そして迎えた二次試験。
当時はかなりの難関校だった奈良女を
受験する生徒は学校では4年ぶりで
期待されているのは
痛いほど感じていました。

しかも父が同じ学校の
定時制で働いていて
どんな結果だったとしても
いろいろな人に筒抜けとなる状態。
そのプレッシャーで気分は最悪でした。

ところが
「どうしても、
    この大学に入るんだ!」
そう思えるような
奇跡の出会いが起こったのです。

二次試験のために予約していた
ホテルにチェックインした後
下見がてら大学まで行った時の事です。
「受験生?」
とてもきれいな女子大生2人組から
声をかけられました。

どんな展開だったか覚えていないけど
その先輩方とラジオの深夜番組
”ぬかるみの世界”の事で盛り上がりました。
当時の番組のリスナーは
”ぬかるみん”と呼ばれていて
その仲間意識から話がはずみ
すっかり緊張が解けていく
夢のような時間。

「“ぬかるみん”なら絶対大丈夫!
     合格したら連絡してね」
と言ってもらい
まだ受験もしていないのに
想いはすでに女子大生の気分。
最高でした。

春からのキャンパスライフを
希望いっぱいで思い描く事が出来たのは
本当にありがたかったです。

そして二次試験の入試本番です。
大の苦手の数学を何とかクリアして
英語では”地獄"のスペルが
どうしても思い出せず
(今でも”地獄”の文字はトラウマ)
勉強不足を後悔したものの
やり切った感で一杯でした。

それなのに…。
父に受験が終わった報告のために
電話した時の事。
私は自分が感じた達成感を
伝えたかったのに
本当は一言でいいから
「よく頑張ったな」って
言って欲しかったのに
父が知りたかったのは
「受かりそうかダメそうか」
だけでした。

元々”大”嫌いだったけど
この時の父に対する失望感は
言葉では言い表せません。

心に墨を塗りこめられたような
最悪な気分。

だから自分の子供達の受験の時には
どんな状況だったとしても
声のかけ方に気を付けようと
心底思ったのでした。

ただ
受験後の帰宅の道すがらは最高でした。

行きは初めて新幹線に乗り
お金がなかったから帰りは寝台特急。

それまで我慢していた
漫画を買ってもらい
当時は珍しかった
フライドポテトを食べながら
寝台車で過ごした一晩は
揺れのひどさも気にならないほど
人生で”最高の時間”でした。

3 合格後のアップダウン


「そう第一志望はダメだったのね…」
合格発表の時の
喜びにあふれた気持ちに
冷や水をぶっかけたのは
母の一言でした。

実は第一志望の食物学科は不合格で
第二志望の生活経営学科で
ようやく合格出来たのでした。

私は正直どっちでも良かったのです。
合格出来た事で
大手を振って家から出て行ける事と
もう死ぬほど
勉強しなくていいという事が
何よりも大事な事だったから。

でも
この時の”母の期待に沿えなかった”
という気持ちは
後々私を追い詰めます。

だって父が叔父の
借金の保証人になった事で
母がどれだけ苦労して
お金を回していたかを
知っていたから。

本当は親からは
実家から近い広島大の教育学部に
進んでくれと言われていたのです。
当時住んでいた大分県の
教員採用試験にも
受かりやすかったから。

それなのに無理を言って
奈良に出してもらう
負い目もありました。

そして、いよいよ旅立ちです。
当時
借金返済のために内職に追われていた母は
当然何もしてくれません。

入学金などのお金の振り込みも含め
合格の後の手続きや引っ越しの準備など
全て自分自身でやらなければならず
合格の喜びに浸るよりも
”手続きを間違えない”事に
必死で本当に大変でした。

友達は手続きなどは親がしていて
遊び回っている中で孤独というか
親に甘えられないしんどさを痛感して
最悪の気持ちだった事は
言うまでもありません。

4 その後の人生と自身の受験


「こんな世界もあるんだ! 」
大学生活は驚きの連続で
田舎暮らししか知らなかった私には
本当に刺激的でした。

当時は”奈良女”のブランドも
それなりに確立されていて
優越感に浸れる事も多かった気がします。

何より京大や阪大など
高校時代にどれだけすごいのだろうと
憧れていた大学の人と知り合えた事。
(後で幻想と分かった部分もありますが)

この頃の私は一番
自己肯定感が高くて
自分を信頼出来ていた頃でした。

その自信が揺らぎ始めたのが
大学の4回生で受けた
教員採用試験に落ちた事。

最終面接で
大学の先輩と二人になった時、
すでに学校で
講師をしていた先輩を見て
”落ちる”とすぐに感じました。
気迫の違いというのでしょうか?

それ位、私は大学の時には
教育に対する情熱が不足していました。

何とかなるかと思っていた
教師生活は
非常勤講師で幕を開けました。
これはそれまで
挫折を知らなった私にとっては
屈辱そのものでした。

この頃から、
母の愚痴が始まります。
「あんなに苦労して大学を出したのに
まともな仕事にもつけないなんて…。」
教員をしていた父を見ていた
母にとって非常勤講師は
ただのバイトでした。

その後、
採用試験を他県で受けなおし
2年だけ教諭になったものの退職。

主人の駐在について
海外で暮らしをする事を選んだのが
理由でしたが
本当の退職の理由は
学校の仕事があまりに辛かったからです。

帰国後は激務の主人に
子育ての協力など
頼めるはずもなく
ワンオペ育児の日々を送ります。

今のようにSNSもない時代です。
社会から隔絶され、
たまに実家に帰ると
”大学まで出したのに使えない人間”扱い。
心が休まる暇がなく
自己嫌悪に陥った時代。

この頃に私の自己肯定感も
自分への信頼もだだ下がり、
というか、ほぼゼロに近くなり
何の役にも立ってないという
「無用感」にさいなまれていました。

5 最後の大舞台 
~受験生のママのサポートを決意するまで~

「日曜だけ、仕事してみない?」
その一本の電話に
どれだけ救われたか分かりません。
大学の同級生で高校で
教員をしていた友人からの連絡でした。

それがきっかけで非常勤講師として
復職できる事になったのです。

勤務校は通信制の学校。
初めての経験で戸惑いは多かったけど
往復の通勤の電車の中だけは
子供達に邪魔されないひとりの時間。

それが持てる事の幸せは
体験した事がある人でなければ
分からないかもしれません。

日曜のスクーリングと
レポートの添削と家事、育児に
明け暮れる日々は
楽しい事ばかりではなかったけど
それなりに充実していました。

そのポジションが無くなるまでは…。

「もう非常勤講師は要らないから」
それなりに一生懸命やってきたけど
私はその学校で
必要とされなくなりました。

でも逆に、
その頃から子供達の教育に
お金がかかるようになり
お金のためもあり、
次の職場を必死で探した事を
思い出します。

つてをたどり芦屋の公立高校で
講師をさせてもらう事になり
”非常勤”の不安定さを思い知り
自分で英語教室を開き、
レッスンをしていた3月。

知り合いから灘校の
家庭科講師の仕事の話を
もらったのです。

初めは冗談かと思ったのを
覚えています。

だって渡米前に
私が高校で仕事をしていた時は
まだ家庭科は女子だけがとっていて
”良妻賢母の育成”という
感じだったから。

いくら時代が変わったと言っても
それまで授業をしていた
通信制の学校では男女交えて
15歳から70歳位まで
幅広い年齢層が相手だったし
男子だけのクラスに
家庭科の授業をするなんて
全くイメージ出来なかったから。

でも灘で家庭科の授業を
受け持つ予定だった人が
事情が出来て無理になり
急ぎで他の先生を探しているという事で
週1回の授業だけという気楽さもあり
引き受ける事にしました。

ここでの家庭科の授業経験は
私の受験についての考えを
大きく変えて行きます。

ありきたりの授業では
見向きもしてくれない生徒たちを
相手にどうすればいいのか
試行錯誤が続く中で、
職員室で他の先生方から
いただいたアドバイスは
”受験勉強に役立つ”
家庭科の知識や技術を伝える事でした。

そして灘での仕事と並行して
家庭では子供達が
中学受験で中高一貫校に進み
様々な問題に直面しました。

私の中で”奈良女”の頃の
成功体験というか
自己肯定感の高さがよみがえり
親戚からのプレッシャーもあり
いつの間にか
子供達を
”それなりの大学に入れる事”が
私自身の自己実現に
つながって行きます。

その時には意識していなかったけど、
子供達の受験期に
私は彼らをコントロールして
私がいいと思う方向に
向かわせようとしていたのだと思います。

それに反発した子供達が
私に対して抵抗して
親子関係がギクシャクしてしまったのは
今考えれば当たり前の事なのだけど、
(むしろ健全?)
当時は
「これだけ子供達の事を
   考えてやっているのに
   なぜ分かってもらえないの!?」
と不満だらけでした。

こういう状況の中で
学校の仕事でも家庭での子育てでも
常に「受験」というのが頭にあって
いろいろな情報を集めたり
セミナーに参加したりして
”セミナージプシー暮らし”に
突入したわけです。

そして私学に進んだ子供達は
学校での人間関係などで
トラブルを抱えるようになり
カウンセリングに連れていったり
転校を考えたり
親として悩む日々が続きました。
この頃に心底欲しかったのは
信頼できる人と場所。

もしかしたら、
「将来自分がそういう立場で
何か出来るかもしれない」
だとしたら
「男子校だけでなく
他の学校も経験したい」
そんな事も考えて、
1~2年ずつですが、
神戸女学院中等部高等部や
甲南女子中、甲南高校で
灘と並行して
授業を受け持たせてもらいました。

その時はそれぞれの学校で
本当に苦労したけど
灘以外の私学の校風に
短い間でも触れる事が出来、
いろいろな視点を持つ事が出来たのは
ありがたく思っています。

結局、何の因果か、
子供達二人は学部は違いますが
家から通える同じ国立大に推薦で合格。
(一番、お金のかからないパターン)
キャンパスライフを送りましたが、
これがまたトラブル続きで…。

あまりにも家庭生活が
問題続きなのもあり、
救いを求めるように、
そして経済的自立も考えて
コーチングの研修を受け始めてから
いろいろな事が変わり始めました。

そして、この3月。
14年間勤めた灘を退職し
人生最後の大舞台での
家庭科講師としての
人生の幕を下ろしました。

自分自身の受験という切り口から
人生について考える時、
必死で勉強をして何かに合格し
人生を切り拓いて
ステップアップしてきたというのは
まぎれもない事実です。

ただ、
その背景にある家族からの
プレッシャーや失望、
自分自身への信頼の欠如や
自己不信などは
私自身や家族が
受験をもっと違う視点やアプローチで
捉えられたら
きっと変わっていたのではないかと
心底感じます。

そして
自分の子供達の受験生活や
様々な学校での
生徒達の様子を見ていて、
心から感じたのは家族、
特に母親の影響の大きさでした。

家の中で”お母さん”が穏やかで
落ち着いた生活する事で
子供達は受験期でも安心して
暮らせるのだと思います。

長男の受験の時のママ友は、
いわゆる太っ腹な人が多く、
とてもおおらかで、
入試期間中は
「どの子が受かっても、たとえ
ダメだったとしても健闘をたたえよう!」
という感じで救われました。

お互いに子供を中学受験を
潜り抜けて来た戦友という感じで
彼女達の存在は
本当にありがたかった…。

最後に
受験期は一人でいると
どうしても迷いや不安やモヤモヤで
気持ちが揺れ動くかもしれません。

家庭のムードメーカーで
影響力の大きい”お母さん”が
不安定だと、
表面には出さないようにしていても
子供達のセンサーは敏感にキャッチして
心にさざ波が立ち
勉強に集中出来ない事もあります。

もし何だか落ち着かないと思った時に
少し視点を広げたり
少し視座を高くすると
気持ちが落ち着くかと思います。

それは”何のための受験”かという事。

それがお子様の幸せを
心から願うものであるならば
合格や進学の先を
見越した未来の幸せに
思い至るのではないでしょうか?

受験で志望校に合格する事は
もちろん大切ですが
これまでの人生経験を振り返り
受験期に
親子の間で信頼関係を築ける事や
入試までのプロセスで
培っていける様々な力を
親子で一緒に高めていける事も
その後の子供の人生にとって
大切な事かと思います。

そして何より
私が心から願うのは
お母さまご自身が
生活や人生を大事にする
様子というか背中を
見せてあげてほしいという事です。

子供達は身近な大人、
特に家庭で自分たちを
見守り育ててくれる親御さん達の
後ろ姿を通して
社会に出る事への期待を高めていく
のだろうと思います。

これだけの受験勉強をして
志望校に入り、
やがて社会に出たら、
きっと希望に満ちた世界が
待っているはずという
”明るい見通し”が
何よりの動機付けになると思います。

こんな事は実際の受験期には
きれい事に過ぎず
実践は難しいかもしれません。

もし何気なく見たSNSで
受験生のママに役立つ情報や
ヒントのシェアがのっていて
お母様ご自身以外の
第三者の視点が入れば
気持ちや考え整理が出来て
受験に対する捉え方が変わり
それが日々の落ち着いた暮らしに
反映されるのではないかと考えて
”受験生のママのサポート”を
していく事を決めました。

少しでも必要としてくださる方の
お役に立てればと思います。
長文にお付き合いいただき
ありがとうございました。
〈終わり〉

現在、受験生のママのサポートは
子どもの学びとママをつなぐサポートに
形を変えて活動させていただいています。