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書評:『昨日までの世界(上)』(ジャレド・ダイアモンド, 倉骨彰)その1:境界と敵

ジャレドダイアモンドさんの新しい方の本。上巻だけで、大変に面白かった。ホモサピエンス全史ぐらい得るものが多かったので、多分、1回では書評が終わらない。読んでいて、「なるほどなあ」「そうだよなあ」「そうかもしれないないなあ」「うむうむ」という感想がたくさん出てくる、為になり、いろいろなことを考え直してしまう一冊であった(まだ上巻だけど)。

本が書いているのは、狩猟採取時代の人間の暮らしと現代国家社会の違いについて。人間の歴史は、狩猟採取の方が圧倒的に長い。250万年前ぐらいから、狩猟採取をしていた。現代国家社会・農業革命以後など、たかだか1万年ぐらいしかなく、249万年ぐらいは狩猟採取してた。これらの狩猟採取の生活を「伝統社会」と呼び、現代の「現代社会」と比較しながら特徴を探る。ニューギニア高地や、一部アフリカ、アマゾンの奥地にまだ「伝統社会」の生活の名残があるので、その記録や各種解析を通じて、比較しながら、人間生活の研究が進む。すると、現代の日本など先進国の常識が、人間の歴史の中ではちっとも常識ではないことがわかり、「現代社会」のいろいろな常識や慣習を見直すきっかけになると思う。

以後、上巻のテーマをたどる。

境界とは何か?友人・敵・見知らぬ他人

チームラボの猪子さんはこれを知っているのか(知った上で話してそう)、知らぬのかというのが第1章である。敵味方の判別である。

現代の国際空港では、見知らぬ人たちが、何も殺傷事件が起きることなく、近くですれ違い、商業的な行為を営むことができる。これが現代社会の常識であるが、「伝統社会」ではこうは行かない。大抵の場合は、隣の民族は敵なのであり、見知らぬ人間は、用心すべき対象で、海から流れつこうものなら殺される可能性の方が高い。すでに、ボーダレスではなく、部族間にも曖昧な国境があり、そこを越えると争いが起きる。動物のナワバリと同じである。

伝統社会にもいろいろあって、完全なる狩猟採取であり、移動生活だとその境界は曖昧である。しかし、畑があったり、良い狩場や植物採取の場所があり、良い資源があると、こちらは、境界が決まり、会っただけで争いになる。という話。一言で言うと、違う部族の間で、安全保障はない。

交易の目的も現代とは違う。このような伝統社会では、隣の部族とは取り決めが必要である。貨幣もないし、赤の他人とは取引をしない。物々交換には信頼が必要である。そもそも交換をする目的がお金儲けではない。

隣の部族と交流がなければ殺されるのが伝統社会なので、交流を持つようにする。あえて自分の部族でも作れるものを売り買いして、交易を持つことで、相手との敵対を避けると言うのが伝統社会の交易の目的であるとのこと。安全保障の目的の方が、物理的な利益の目的より大きい。

だから、部族外から輸入していた製品であっても、部族間が抗争に入ると、内製化できると言うことが起きるらしい。

と、内容はこんなことである。以後、感想。

隣の部族に会えば、大変に緊張し、殺される可能性が高い社会が、伝統的な社会である。まあ、群にいないライオンが追い払われ、殺されるのに近い。それは言われればそうかもなと思う。

新たな発見といえば、商売の目的である。現代国家社会では米国を中心に「お金を儲ける」自体が目的になっているが、伝統社会の目的は、「平和維持」であることが多いと言うのは、発見だった。確かに、自分たちで作れるものをあえて貿易することで、相手との関係ができ、敵対関係を緩和できると言うのはある。

それを中国みたいに、コロナウイルスが蔓延したら、中国内の工場からマスクをカツアゲして、外国には出さない(それが外国企業の工場でも)、と言うようなことをしてしまうと、交易の信用台無しで、安全保障が失われ、平和が失われると言うのは、ある意味自然なことであるので納得した。

伝統的社会というのは、国家レベルや社会生活レベルでは失われているが、人付き合いのレベルや、企業間の交流という意味では未だ有効な部分が多いと私は思っており、外から買わなくても良いものをあえて買って、売らなくても良いものを売るというバーター取引を持って、お互いの提携度合いを上げていくということは、企業でもよくやる手法なので、確かにあるよなあ、内製化比率あげすぎるのもそうだよなあと思うのだが、仲良くなろうとするのであれば、give & takeなのであり、一方的な関係ではちょっと違うのである。などが感想である。

ゆえに、国境なき世界、ボーダーレスな社会というのは非常に進歩的である。人類未踏の領域であり、生物未踏の概念なのかもしれない。ボノボは喧嘩しないが、ボーダーがなく喧嘩しないのか、ボーダーはあるけど喧嘩しないのか、なんかが気になる所ではある。


子供の死に対する賠償

子供の交通事故に対する賠償の話。ニューギニアの場合、全然プロセスが異なる。所謂、私罰や復讐が認められる社会があるので、完全にプロセスが違うのである。

ニューギニアで、社用車が子供を引いてしまった。子供の飛び出しが原因である。この場合、ニューギニアではひき逃げて、近くの交番に行き、自首するのが正しいプロセスであるという。

そうしないとどうなるかが書かれている。車を止めて救急車を呼び、車に跳ねられた子供の手当をするため車を飛び出す。子供は不幸にも亡くなってしまう。すると、その近くにいた子供の親やその親類が集まってきて、血気盛んに復讐してしまう可能性が高い。社用車の運転手や同乗者は、その場で殺されてしまう可能性が高いという。子供の命を奪われた復讐である。

なので、車はその場を離れる。警察に申告する。賠償のプロセスは、部族の長を通じて行う。運転手の代理人をたて、部族の親類縁者を辿り、部族長に話をしにいく。そういう意思疎通をしないと、死ぬのである。

この場合、会社はまずは閉鎖である。運転手は自分の部族のところに篭って守ってもらう。それでも、社長のところに子供の親がきた。ドキドキの社長は、無人の会社で交渉に応じる。子供の父親は言う「今回は事故でしょうがないと思っているけど、葬式が出したい。しかし、そのための金がないので援助してほしい」。社長はわかったとして、部族社会に詳しい代理人を立てて、部族長と交渉に望む。

葬式は部族の方式にとって行われ、この代理人が賠償の品とともに詫びる。子供のいた部族の方がそれに答え、「罪を許して、親戚・部族を通して、復讐しないことを誓う」。当事者同士の仲直りが計られ、賠償のプロセスは終了するのである。

ここから感想を交えて書く。

私は法学に全く詳しくない前提で書くが、刑事と民事がある。今回のケースの場合、交通事故防止のために罰則を儲けるのが刑事である。これは、国家としての、再犯防止と交通事故防止が目的である。

被害者への賠償は、民事であって、被害を回復するためのものである。これは民事ということになる。現代社会の場合、重大な過失がない場合、お金を払って終わりである。交通事故で殺した運転手と、子供を失った親という当事者間は、謝罪をするかもしれないし、しないかもしれない。お互い弁護士を立ててやりとりすれば、お互いの当事者間の意思疎通もないのである。

だから、当事者間で街ですれ違っても、気づかないかもしれないのが現代社会である。賠償が終わっても、当事者間の心の問題は解決しない。

対して、部族社会はお互いが顔見知りであったりするので、当事者間の心の解決を重要視する。上記の交通事故の場合、子供の親が納得せねば賠償のプロセスは終わらないのである。終わらないと、復讐の連鎖で殺人が繰り返されることになる。

現代の法律が支配する社会にいると、この感覚を失うわけだ。まあ、ご近所の問題を裁判所に持ち込むと、近所の中の悪いのは残るという意味でこの紛争解決プロセスはためになるのである。当事者間の心の問題まで解決する「面倒臭い」解決プロセスをとり、失敗すると復讐殺人の連鎖を生む「伝統社会」のやり方と、刑法と民法で解決プロセスをとり一旦は治るが、当事者同士の感情はいつまでたっても未解決な「現代社会」の賠償というのは面白い。

これもご近所でもあるし、会社内のいざこざというのもよく起きる。法律に則って賠償するのも良いが、それはあくまで義務を果たすだけであって、当事者同士の心の問題の解決にはなっていない。結果、会社内で派閥が起きて、当事者間の争いがどうしようもようもなく解決できず害が起きることも多い。仲裁に入っても、納得しないような部類の人間もいて、苦労することになるが、まあ、こういう現代人ではない人には、伝統社会の解決方法の方が向くのかもしれない。同じく、ご近所の主婦同士の結果も似たようなものであろう。

現代社会における法律による紛争解決を学ぶとともに、伝統社会における問題解決方法も活用することで、現代社会で生活を営む我々もより平和な生活を営めるのかもしれないと思った。

(上巻の感想だけで、まだまだ続く

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