書評:『サピエンス全史(上)』(ユヴァル・ノア・ハラリ,柴田裕之)その2

お次は、第3章 狩猟採集民族の豊かな暮らし について。
すごく魅力的なタイトルです。

20万年前にホモ・サピエンスが進化した
7万年前に認知革命が起きた
1.3万年前に、ホモ・サピエンス以外のホモ属(人類)が絶滅
1.2万年前に、農業革命が起きた

7万年前に高度な言語能力(嘘をつく力)を手に入れたサピエンスは、1.2万年前に農業革命を起こすわけですが、逆にいうと7万年中6万年は、サピエンスは狩猟採集民族として暮らしていた。

たかだか20万年しか生きていないサピエンスのDNAは、農業民族よりも狩猟採集民族の遺伝子が濃いわけで、こと、身体的な問題である健康については、狩猟採集民族の生活スタイルに適応していると考えるのが自然だろう。

世の中、「農業革命が起き、豊かに幸せになった」ことになっている。
しかし、「実はそうでもないらしい」というのが、ここのお話。

昔のサピエンスは人口は少なかった。ゆえに、大きな縄張りを持ち、色々なものを食べていたらしい。クルミ、獣、果物、魚介類などなど。今でも、色々食べたほうが健康に良いのは、この頃の遺伝子が強く残っているから。コメとか小麦など一部の植物を主に食べる農耕民族に比べ、狩猟採取民は、食生活豊かだと著者は言う。

狩猟採取の生活では、食べるものの毒を見分けなきゃいけない。どの果実がいつどこで取れるのか覚え、伝承するので、覚えるべきことが多い。今はサピエンスは、スーパーで売っているものを買えば、毒はない。ゆえに、昔のサピエンスは今より脳みそがデカかったらしい。個体としては、昔の方が、今のより賢い。近代の天才アインシュタインは、5万年前の森にいても飢えて死んじゃうのだ(ビルゲイツも「昔にジャングルで生まれていたら死んじゃう。生きているのが今でよかった」と、よく言っている)。

狩猟採取民は、労働時間が短い。1日4時間ぐらいの狩猟採集労働を終え、あとは、子供と遊んだり、噂話したりして遊んでいたとのこと。

「飢えなかったのか」といえば、飢えなかったらしい。そもそも、農業革命後も、小麦やコメなど単一作物には不作がある。不作だと飢饉。飢饉があるとサピエンスは結構死んだ。一方、狩猟採集民族は、色々なものをとって食べるから、ザクロが駄目ならみかん、という具合に、色々な食料を確保できたので、あまり飢えなかっただろうと著者は言う。

「じゃあ、コメ蓄えればいいじゃん」となる。農耕民族は1日10時間働き、コメを蓄える。蓄えたコメは、腐ったりする。盗賊に襲われて盗まれる事もある。このような新しい不幸を呼び寄せた。

狩猟採集民族時代は、人口密度も低かったので、病もなかったという。現在の中国の大都市にあるような工場の公害はない。今の中国の下流労働者より、昔の狩猟採集民族の方が、文化的で幸せな生活を送っていたと言う。

その時代の社会生活はよくわかっていないらしい。残っているものだけで推測するのは無理があるので、分かりようがないらしい。

その性生活も、ボノボのように、乱交で平和な集団もあっただろうし、アルファオスがいるようなチンパンジーコミュニティのようであったのかもしれないらしい。コミュニティのあり方は、画一的ではなく色々な形態があったとのこと。

(部族によるが)残っている骨格の壊れ方から推測すると、外部の人に殺された人の比率はさほどでもないらしい。そもそも、ボノボみたいに乱交しちゃえば、夫婦も離婚もないから、喧嘩もないよねと著者は言う。

狩猟採集民族たるホモサピエンスの6万年は、人類史上最大のミステリー。

と、第3章の内容はここまで。


感想。

まず、食生活。一時期「炭水化物が悪」と言う本がたくさん出回った時期があった。「7万年中、6万年は、小麦やコメばかりを食べてなかった」と言われてみると「確かに、そうだ」と思う。我々のDNAは、色々なものを食べるのに慣れていただろう。

「コメを食べないとご飯を食べた気がしない」という日本人や「パンを食べないと食事した気がしない」というフランス人とは異なる感覚を私は持っている。嫁さんがいろんなものをちょこちょこ作ってくれる。私は、それが美味しいと思うし、「この食生活が健康だ」と思う(私の場合は、酒にコメが合わず、酒のつまみが色々欲しいだけかもしれないが…)。

ここで、思い出したのは、「マグロがない」「タコが高い」「うなぎがない」と騒いでいる低俗なサピエンスのことである。一方、経験豊富な寿司職人は、「マグロが高ければ、他のネタを買うだけ」と言って、包丁一本さらしに巻いて、築地市場でマグロ以外のネタを狩猟採集し、美味しい寿司を作ってくれる。マグロばっかり食べているより、いろんなネタを食べた方が、健康的だし、財布にも優しいだろう。やはり、このような老練の寿司職人さんみたいな狩猟採集民族の方が、近代的な農民より脳みそが大きいのだろう。


次。乱交ですか。

明らかに浮気がDNA組み込まれている一族を私は見たことがあります。某経営者さんがそれです。また別の機会に、ある起業家の講演を聞いた。そのご経歴から、「こりゃ激しいご離婚をなされているな」と思っていたら、その某経営者様のご親戚だったそうで、大変、びっくりしました。その一族は、ボノボ系の文化をお持ちな平和主義者だと思います。今の日本の法律にはあまり合致しないので、苦労が多いと思いますが、優秀な方々です。

「乱交しちゃえば、浮気もない、喧嘩にもならない」という著者の意見は、まあ、そうかもしれません。科学が発達せず、「一つの精子と一つの卵子が交わって、子供が生まれる」を知らなかった時代もあった。例として、「多くの精子が合わさって、色々な人の強い部分だけを持った子供が生まれる」と信じられていた部族の話が載っていました。このケースでは、乱交は正義であり、強い子供を産むために必要な善行となる。この規範なら、男女の取り合いから生じる喧嘩も、夫婦喧嘩もなくなる。誰の子供かわからないから、みんなで子供を育てるようになる。乱行は社会的なメリットもある。

乱交社会は、今の社会規範にはあいません。ただ、一夫一妻も、たかだかここ数百年以下の常識。後から振り返ってみると、6万年の狩猟採集生活期間に比べて考えてみると、一夫一妻も、数百年の一時的などうでもいい規範なのかもしれません。

日本の過疎地に乱交特区なるものを作り、乱交を許可し、一夫一妻の夫婦制度もやめて、結婚も無くし、誰の子供でもなく、みんなでなんとなくその辺にいる子供を育てる制度を作ったら、成り立つのかもしれません。みんな自分が可愛いと思う子を育てるから児童虐待もなくなるし、など妄想してみる夏の日でした(小泉進次郎さん、どうですかね。30代が結婚相手に悩むこともないですし、少子化対策にもなると思います。乱交特区を発案すれば、変人扱いになるのは間違いなしですが)。

<追記>
という乱交の話を書いていたら、或るお方から「『花園メリーゴーランド』(柏木ハルコ)読め」というお話を伺ったので、読んで見ました。結論、昭和の戦後すぐの頃まで、それに近いムラは日本にもあったようです。乱交特区は、時代を少し遡るだけの微妙な政策になりそうだと思いました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?