書評:『サピエンス全史(上)』(ユヴァル・ノア・ハラリ,柴田裕之)その4

農業革命に入った。第5章 農耕がもたらした繁栄と悲劇。

サピエンスが、農耕生活に入ったのは、ここ1万年ぐらいのことらしい。
「農業革命で、人は飢えなくなった」は都市伝説で、事実と異なるらしい。農業革命を「農耕生活の罠」と著者は呼ぶ。

狩猟採取生活の生活レベルは低くなかったことは、前章で述べた。1日4時間働き、残りは遊んでいればよかった。農耕生活は1日10時間労働。灼熱の中水を汲みに出かけ、狭い土地に張り付いて、小麦の面倒をみる。著者は「サピエンスは小麦の奴隷になった」と言う。

狩猟採集生活では、赤ちゃんが移動の邪魔だ。なので、3−4年間をあけて子供を産むのが普通だったらしい。農耕生活になると年子になり、子供が増えた。明日、飢えないために農業をやるのだが、結果は、人口が増えた。

農業革命で、人口は増えた。個々の個人は豊かになっていない。

農業は、慣れない筋肉を使うので、椎間板ヘルニアになる。遠くから水を運ぶのも大変だ。食は一部の作物に偏り、病気が増えた。人口密度が上がり、疫病に苦しむようになった。サピエンスの生活レベルは、農業革命で落ちたと著者は言う。

その代わりに命が保証されるか、と言うとそうでもない。栽培に向く植物や家畜化が可能な動物はごく一部。作物が一部に偏っているので、水不足で不作になれば住民は飢饉になる。イナゴが来れば、食物はなくなる。伝染病が起きれば、家畜も全滅し、飢える。

逆に、豊作になると、倉庫一杯に作物がたまる。すると、盗賊が出て、街が襲われ、戦争が起きる。見張りを立てる必要も出る。農耕に向いた土地はごく一部なので、土地を巡って集団の争いも起きる。などなど。農耕生活は、新たな不幸を呼び寄せた。

ならば、不幸な農耕生活から狩猟採取生活に戻れば良さそうなものだが、戻れなかった。理由は、人口が100人から110人に増えると、口減らしができないから、と著者は言う。

農業革命は、人類にとって良いことではなかったのかもしれない。

それでも「農業革命すごい」と学者は言う。その理由を深掘りすると、基準に問題があると著者は言う。学者は、進化上「良い」と判断を、DNAの複製が多いことを基準に置いている。著者はこれを否定している。

例えば、地球上の動物で数が多いのは、牛、豚、ニワトリだそうだ。これら家畜は、野生で生きていた時代よりずっと多数が地球上に生きている。多数の牛は、殺され、食べられるためだけに生きている。天寿を全うできない。乳牛は、無理に妊娠させられ、乳を搾取され続ける。少数だった野生牛と激増し多数の家畜化牛で、どっちが進化上の勝ちかと問えば、当然野生牛の勝ちだと著者は言う。基準を人口に置くと、家畜化牛が進化に成功したことになる。実体は家畜化牛は明らかに生物として失敗である。「彼らの進化上の成功は意味がない」とまで著者は言う。

家畜化された牛同様、小麦に家畜化された人間(人間は狭い場所に縛り付けられ、肥料を与え、耕し、水を与えて、小麦を育てる)は幸せなのかと、著者は問う。

「明日楽になるかもね」と言う希望のせいで、サピエンスは、1日4時間労働の森の生活を捨て、焼け付くような日差しの下で桶に水を汲んで運ぶ生活にはまってしまったと、著者は言い切る。

狩猟採取民族は大きな遺跡を残していないと言われてきた。違うらしい。
最近、狩猟採取民族でも大きな遺跡を残していることがわかったとのこと。「農業革命何なの?」と言う話になってきた。

第5章の内容はここまで。


感想。

一言で言うと「贅沢の罠」と著者言う。農業革命も怪しいもんだ。

農業革命から1万年たった現在は、サピエンスが飢えることも少なく、繁栄している。その最初は、悲惨な生活にひきづりこまれたと感じる。「サピエンスは小麦の家畜」と言う皮肉は、なんとも鋭い。「米(パン)食べないとご飯食べた気がしない」と言う日本人(フランス人)は、米(小麦)の家畜に違いない。

戦略論的には色々考えることがある。小麦や米という一部の栽培しやすい作物に「選択と集中」をしたサピエンスは、農耕民族化した。戦略的である。一方、多くの動物を食べ、多くの植物を採取して生きている豊かな狩猟採取民族もいて、こちらは「ポートフォリオの分散」をしている。

企業経営の世界では「選択と集中」をしすぎて死んでいる企業をよく見る。液晶やプラズマクラスターに入れ込みすぎて絶滅したシャープ、プラズマ・カーナビ・DVRの三種の神器に集中してなくなったパイオニアなどが良い例であろう。一方、ポートフォリオを「選択と集中しない」のは、ウォーレンバフェットのバークシャー・ハザウェイなどがある(一応言っておくと、バークシャーの方は、ウォーレンの投資の範囲は決まっていて、無秩序に投資対象を決めるのではなく、自分がわかるこの業界に投資をするので、投資の範囲は決まっている。範囲は決まった中でのポートフォリオ経営である)。

分散の狩猟採取生活か、選択と集中の農耕生活か、選べる訳でもなかったのだろうが、悩ましいところである。

同じ農業やるにも、家庭菜園的に幅広い作物を作って暮らす、自給自足の狩猟採取生活が良い気がしてきた。昔は、各作物を作るのに情報がなかったからうまくできなかったが、インターネット化した世の中、多品種少量生産しても、そこそこうまくいくような気がする。

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