書評:『ホモ・デウス 上下合本版 テクノロジーとサピエンスの未来』(ユヴァル・ノア・ハラリ, 柴田裕之)

前作『サピエンス全史』がとてもつもなく素晴らしかっただけに期待して読んだのだが、駄作。これを読むなら、『サピエンス全史』を二度読んだ方が良い。

ホモ・サピエンスの先がホモ・デウス(ホモ・ゼウス=神の人)というので、これからの未来の人間像を期待して読んだのだが、過去とその分析のばかりで、内容が『サピエンス全史』と全く変わらない。時系列の話が、テーマ別に変わっているだけで、新しいものが何もない。我慢しながら全部読んだが、結局、nothing newと感じたのは私だけだろうか。

ハラリ氏の真骨頂は歴史家としてのハラル氏であり、ハラル氏は、未来の予想の人ではない。この本を書いたタイミングも2016年と中途半端だったこともあり、違和感ありまくりである。

「一神教に脳みそを犯された人は、こういう発想になっちゃうんだなあ」というのが正直な感想である。

その違和感を噛み砕いて書いていくと、まず、ハラリ氏が間違った脳科学に基づいて未来や人間を分析していることがある。ハラリ氏の前提は、「人間の全ての処理は、脳みそのニューロンで行われている」という少し古い生命科学の常識に囚われている。実際は、NHKの人体シリーズで言われているように、臓器がホルモン物質を出し、臓器が受け取り、臓器同士がメッセージをやりとりして情報を処理している部分があり、人間の情報処理は、脳みその一極集中処理ではなく、脳みそと臓器とセンサーを通じた超自律分散処理なのだが、それはごく最近わかったことなのか、この本に全く反映されていない。つまり、人間と同じ脳みそを人工的に作っても、人間と同じセンサーたる目、手足、耳、嗅覚、味覚をつけないと、人間と同じ情報処理をする脳みそにはならない。センサーと脳みそがセットで知能を生み出すことは、近年のdeep learningや機械学習を少しでも扱う人がいればわかっていることだと思うのだが、ハラリ氏は、脳みそニューロン至上主義である。脳みそのミクロをいくら重ねても、人間の知能にはならないのは、随分前からの脳科学の常識である。その辺の医学というか、生命科学というか、情報科学というかの最先端からずれた前提から、人間の分析が始まってしまっているので、違和感ありまくりなのである。

それでもなお、この本を読んで学ぶところがあるのは、一神教に毒された西洋人の考え方ついての理解である。

ハラル氏だけなのか、西洋人全体なのかはわからないが、どうやら一神教の西洋人は、「不滅の魂」と「人間は動物ではなく唯一神聖なる存在」という二つを本気で信じているらしい。日本人からすると、馬鹿馬鹿しいし、科学的ではなく、幼稚とさえ感じる。

「魂」という訳語(原語で読んでないので、元の言葉がわからない)が、やたら出てきて、日本人には意味が取りにくかったのだが、ここに日本語の意味ではない「魂」という記号として説明する。「魂」とは不滅のもので、人が死んでも「魂」は死ぬことはなく、他の人間に乗り換えて、新しい(人間の)肉体を得て、「魂」は不滅であるらしい。馬鹿馬鹿しい。

日本人的な感覚では、「魂」=「意識」であり、"ghost in the shell" で言うところの「ゴースト」こそ、魂である。それは不滅なものではなく、私の潜在意識のような自分ではあるが、日本人の「ゴースト」は人が死ねば、死ぬ。心臓が止まり血が止まり脳の機能が停止すれば、意識はなくなり、「ゴースト」は死ぬ。「ゴースト」が義体に入れれば生き残るし、「ゴースト」をコンピューターネットワークの上に乗せればゴーストの不死はあるかもしれないが、そうでなければ、「ゴースト」はデフォルトでは死ぬものである。しかし、西洋人の「魂」は死なない。「魂」がデフォルト不死なのである。

その不死の「魂」について、ずーと語られるのだが、我々日本人には、そもそも「魂」の存在を信じていないので、しらける。これが、違和感の正体である。

一方、「物語る自己」として出てくるものは、私にもよくわかる。これは、「意識」と言う言葉の方がしっくりくる。「ゴースト」にも近い。「物語る自己」は、人間の情報処理の中のたった一部であるにすぎない。私は、常々、「人間の意識というものは、PCでいうデスクトップのようなもので、裏にいろんな処理が走っている中の、モニタリングできるほんの少しの物である」と考えているのだが、その仮説に近い。脳科学の話においても、「決定した後、都合の良い理由をつける」というのがあり、これが、「物語る自己」の正体であろう。これは、意識の正体に近いと思う。


次の違和感は、「人間は動物ではなく唯一神聖なる存在」である。日本人である私は、当然、「人間は動物の一種」であると思っているし、「たまたま人間が今は地球を支配しているが、それが知能の高い恐竜であったとしても驚かない」し、「人類が滅亡した後、ホモ・サピエンスを超える知能を持った動物が出てくる」ことも「過去にホモ・サピエンスを超える知能を持った動物がいたけど絶滅した」としても驚かないし、「ホモ・サピエンスより知能の高い宇宙人がいる」としても、驚かない。全ては、可能性の問題だろうと思っている。こう言われて、「それは絶対に違うよ!」と全否定する日本人というものは、ごく少数で、ほとんどの人は、「そうかもね」と思うのだろうと私は思っている。

しかし、ハラル氏の西洋人の前提はどうやら違うらしく、キリスト教的には、「人間は唯一の存在」でなくてはならないらしい。なんと、馬鹿馬鹿しいことか。天動説ぐらい幼稚だ。「人間の知性は、他の動物たちとは違い唯一のもの」の説明をダラダラとしているのがこの本なのだが、私の意見は、「人間は普通の動物で、たまたま知能が相対的によくて、たまたま地球を支配している」という進化論的な考え方をしているので、そんなことは、どうでも良い。どうでも良いことを延々と歴史を例に説明されるから、読むのが苦痛であった。


ということで、

時系列で人間の歩んできた歴史を辿り、分析することで、人間がいかに地球を支配してきたのか、を語る前作は非常に示唆深いものであった。しかし、それを再構成した本作は、駄作であると私は書評として言い切っておく
(特に、人の未来を知るために、本書を買うと失敗する)。

ハラル氏は、一流の歴史学者であるが、未来学者としては三流以下である。また、生命科学の理解もかなり低いし、データ社会もちゃんと理解できていない。そういう人が未来を分析するのは、無理があるのかもしれない。


ただ、断片的に出てくる歴史の分析は相変わらず面白い。私のお気に入りは、以下である。

これは政治の世界では、「我が国の若者たちは犬死にはしなかった」症候群として知られている。

第一次世界大戦で、イタリアの多くの若者は、どうでも良い領土の取り合いのせいで、「70万人のイタリア人兵が死に、100万人が負傷した」のだそうだ。人口の小さいイタリアで、若者がこれだけ死ねば、国力も傾く。これは、ただの犬死になのだが、「あなたのかわいい息子達は、あなたたちが選んだ無能な政治家のせいで、犬死にしました」は受け入れられないので、神聖なる死である理由を後付けしようとする、という現象を指しているらしい。

第一次世界大戦における「70万人の若者の死」を「犬死」と言い切るあたりの思い切りが、ハラル氏の歴史分析の鋭さである。このような近代史の分析をやらせれば、ハラル氏は世界一であろう。


もう一つ分析で面白かったのは、スーパーインテリジェンスに関する示唆で、「スーパーインテリジェンスに意識はいらない」というもの。人間の知性を超える性能を出すためには、人間の脳みそみたいな処理は必要ないということを言っている。

例えば、高速道路の交通管制をする仕組みに、意識は必要ない。人間の意識はいわばバグであって、ニューロン回路ではなく、普通の統計処理で最適化が計算できるであろうものである。実際、AI,AIと叫ぶアホが多い中、実際の処理は、AIではなく統計処理で済むことも多い。そのあたりの示唆は、ハラル氏のAIに関する現状分析は正しい。

日本の官僚を含めたAIわかっていない人たちと実際にAIを作っている技術者達との一番のギャップはここにあると言って良いと思う。アホな文系官僚は、人間の知能が最高で、コンピューターはそれ以下だと思っており、「最高の知能は人間の脳みそを模倣すべきだ」と思っているが、実際はそうではない。解くべき課題に対して最適な解法というものがあり、画像認識にはdeep learingのニューラルネットワークだが、単純計算と正規分布の予測にはただの統計とPCのコンピューターで十分である。人間のやり方を模倣するのが必ずしも結果が良いわけではないのである。

それを、「スーパーインテリジェンスに意識はいらない」(スーパーインテリジェンス=人間を超える知性)とうまく要約しているのが、ハラル氏である。

日本の政策では、「人工知能の判断の説明責任」だの、「AIは結果がわかってもその理由がわからないブラックボックスだから駄目」というが、実は、人間の脳みそだって判断基準は明確じゃない。よくわからん脳みそが判断をして、物語る自己があとで物語を後付けして、理由をつけているだけである。「人工知能の説明責任」などという、人間の意識を前提とした議論をしていること自体が、人工知能やインテリジェンスを理解していない証左なのであるが、この種の議論が大好きな人が人工知能の政策を作るから、日本はおかしくなる。「そりゃーPreffered networkの方々が、政策集団から離脱するわ」と思うのである。

そう、「スーパーインテリジェンスに意識はいらない」のである。

ということで、この本は、『サピエンス全史』を読めばよりわかりやすく、内容は一緒であるために、本質的には役に立たない本であるが、科学的な長文で説明する事柄を要約する語彙を増やす本としては、すごく役に立つのかもしれない。

『ホモ・デウス 上下合本版 テクノロジーとサピエンスの未来』
(ユヴァル・ノア・ハラリ, 柴田裕之)

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