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歌集のこと



https://radiotalk.jp/talk/944793

伊舎堂 仁さんという歌人の方が私が作った歌集の読みをポッドキャストにしてくださったのを拝聴しました。
「消費者に対する執拗な残酷さがある」といった指摘(かなり単純化してしまいましたが、実際はもっと深い考察をされていますので視聴してみてください)をされていて面白かったです。
全く謙遜ではなく、しょうもない本を丁寧に読んでくださってありがたいばかりですが、それで、自分でもなんであの内容の歌集(なにか猛烈な動機に裏打ちされてやっている)になったのか考えてみたのです。やっているときは必死で自分の気持ちなんか分からないから。そうすると、やはり怨念、忿怒、絶望が激しくあったからだと思い至りました。何に対する怨念、忿怒、怨嗟、絶望だったのかというと、それは現代の歌を詠んでいる人の中でわりかし普遍的とされるテーマが

このわたしの切ないいのち、はかない祈り、とどかないことば、とうめいなかなしみ、きれぎれに点滅していく交信のそこはかとない不可能性への無力さ、窒息と脱力と誤謬におおわれつくし崩落した世を生きるものがなしさ、無抵抗のうつくしさ

であるという状況がまずあるように感じていて、それ自体はわからなくはないというか。むしろ同時代性を持ってすごく理解はできるんですけど、そんなに無抵抗に殺されていく状況にキモチエエくなってしまってどうするんですか? 死ぬんですか? それはちょっと命としてどうなんですか

という、つまり命の形が均質化していること、またそういう自分にぞっとするどころかウットリしちゃっている奇妙な肯定感、それでも生きている限りはどうしようもなく命の中に生じるふてぶてしさを見ようともしない、投げやりで自己憐憫ばかり肥大したようなムード、ひいてはそれが引き起こす残酷な事態への想像力を切り捨てて生きることができる禍々しさに対する猛烈な失望や深い絶望なんじゃないか、と思います。

それは個々の詠んでいる人への絶望、失望というよりも、それをこぞって好ましく考え消費して同質化していく市場というか、カスタマーさんがたの広がりの感じに対する猛烈な感情だと思うんですけど。そうでないものもあるのにそうであるものばかりが前景化していく耐えがたさというか。なんでそんなに気にするのか。ほっといたらいいではないか、別に、やりたくてやっているのだからいいのではないか。「無害」なんだからそれに対して感情を持っているお前の方がよっぽど性格に問題があるではないか。

本当にそのとおりなんですけど、性格に問題があるのは実際にかなりそうなんですけど、無垢な感じ、無害な感じ、漂白している透明な魂のcuteでatmosphere的感じを積極的にPRする市場の広がりがある一面として持つグロテスクさ、絶望感を自分一人くらいは精緻に、技術的には相当拙くてどうしようもないんですけど、というかせめて自分一人くらいは有害だと思われようという決心のせいで技術的な洗練すら頑なに著しく拒んだんですけど、描かないと立っていられない、生きていかれない、そういった途方もなく追い詰められた心地がありました。

「刺さった」とか、最近はそういう言い方もするけど、なんで刺さりに無抵抗無感動なんだよ。じゃあちゃんと死ね。血を噴出して絶命しろ。刺さっても血を流さない人間に共感されたって不気味である。生きるのも死ぬのもサボりやがって、じゃあ私がしっかりとしとめて執拗に残酷に髄も残さないくらい無残に殺そうかなという精神性です。そのせいで残酷で執拗になったんだと思います。見て見ぬ振りをされるのに失敗という表題もそういうところから来ているというか。


よろこびます