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なにかひとつの真実に貫かれることで救われたいという強い願望 VS 常に多面的であり続け、一元的認識をことごとく裏切る現実の冷静さ

・最近やっと自分なりに定義できた「美しい」という言葉の意味内容

 私は長年「美しい」という言葉の意味内容を自分なりに正確に定義するということができず、そのせいで美しいという言葉を

「自分の中にある理屈と世間の中にある理屈を両方同時に超越してものすごい、心にグッとくる構造的な説得力を放ってくるもの」

というかなりアヤフヤな定義で運用していました。どのあたりがアヤフヤなのかというと、説明しきれない領域で発生する超越がなんで構造的な説得力を放つのか、その理由がよくわかっていませんでした。ふつうに考えて、説明できないところで理屈を超えていくのであればそれは構造ではなくビート(いわゆるソーランというか。拍、リズム、振動、情緒を突き動かすもの)であるほうが納得できます。しかし、あくまで自分はですが、わからないなりに「美」の印象を感じているときは、常により大きな構造の一部に自分の受容体の全域が融合していく方向性で拝受するタイプの納得感があるのです。そのシステムの駆動原理がわからなくて常々「謎だな〜」と思っていました。またこの辺りのシステムの言及のされなさ、謎さをいいことに「美しい」という言葉がプロパガンダ使いされている(自分の理屈の中に一方的に対象を取り込んでいるだけなのに、なにか超越が起きているようにアピールすることで全体のサイズ感をビッグに見せかける活動)ことが多い状況にもかなりの嫌悪があり、この世全体がオリンピックスタジアムのようにキモいと思っていました。

 念のため補足すると、「オリンピックスタジアムのようなキモさ」とはやらせの感動に巻き込まれそうな予兆を放っているダサい空間全般への疲労感のことです。「美しい」とされるものに相対するときに、対象に出会う前の政治的な状況に疲労してしまうっていうことは結構あるんじゃないかと思います。この政治的疲労が原因で私は長らく国立の美術館の重厚さだとか、大袈裟な額縁の言わんとする雰囲気が苦手でした。その政治的疲労感がどこから来ているのかというと、「美しい」という概念が持つ特権的性質を特に貫かれているわけではない状態の人がアピール目的で使用してくるので、虚飾された分の価値の飛躍をこちらがボランティア読みで足してあげないといけない徒労感や不自由さから来ているんではないか、と私は思ったのです。

 このような釈然としないオリンピックスタジアム感のせいで「美しい」という言葉に対してかなり限定的な用法を強いられていたのですが、先日急にどう(自分なりに)定義したらいいのかわかるということがありました。

美しい:ある人物にとって、その人の経験や価値体系の全てをある一つの不合理な理屈がつらぬいて、完全なる一貫性をもった完璧な世界として現れてしまうこと

 冒頭で述べた定義と何が違うか、つまりどんな気づきが含まれているのかというと、それは「ある人物を貫く原理は不完全なものでなければならない」という点です。「美しい」と言われると、その語感からなにか完全なもの、完璧なもの、全てが完全無欠な要素だけで満たされた理屈に実感の全てが囚われるイメージを抱きがちです。しかしそれは全くの間違いで、実際には“不完全なものが人間の精神を支配する間「完全」になってしまうダイナミックな敗北”のことを人類は「美しい」と言っているのではないか。

 これに気がついたきっかけはアニメ『ブレンパワード』のオープニング曲「In My Dream」の歌詞なのですが、その一部を引用します。

In My Dream 目覚めさせないで
邪魔はさせない 誰にも
(中略)
何処にもないような素晴らしいreal love
手に入れるまで
I wanna sleep forever

「In My Dream」

すごいことを言っている。これを言っている人物は完全に夢と現実の価値基準を転倒させた上で「邪魔はさせない」「素晴らしいreal love
手に入れる
」など、常識では考えられない決意表明(ほとんど犯行声明のような)をしています。ここまで心の実力が高いと押井守の禅問答にもかなり善戦できるのではないか。

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