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鬼滅の刃はなぜあんなにヒットしたのか 〜全ての個性が液状化した地平で〜

鬼滅の刃はなぜあんなにヒットしたのか


という謎について私は考え続けていました。

ここで取り扱う「なぜ」とは主に思想的側面のことです。

爆発的に大規模に流行する作品というのは意図的であれ偶然であれ、結果的に背負わされてしまったものであれ、必ず時代背景や世代の感覚を象徴するような大きな思想や問題意識が虚構の核になっているのですが、鬼滅の刃にはこれが見られない。

もしかしたら、特定の世代や感覚を持っている人にだけ読み取れるシグナルのようなものがあるのではないかとも考えたのですが、複数の鬼滅の刃に熱中した人に詳しく熱中した理由を尋ねても明確な理由は返ってきません。それどころか、聞けば聞くほどなぜヒットしたのか余計に分からなくなってしまいました。なぜなら熱中した本人も熱中した理由がよく分かっていないからです。

細かく好きなシーンやキャラクターについては答えられるが、どうして熱中しているのかについては自分でも分からない。理由がない。


これが熱中した人の共通の回答だったのですが、(極個人的な)調査を続けるに連れて、むしろこれこそがメガヒットの理由だったのではないか と考えるようになりました。


【「個性」が通用しなくなった】


鬼滅の刃のメガヒットについて考察する為に、同じく週間少年ジャンプに掲載され社会現象を引き起こしたヒット作「DEATH NOTE」について考えてみることにします。

なぜDEATH NOTEについて取り上げるのかといえば、同じ週刊少年ジャンプに掲載され若年層を中心に人気が爆発し、世相を大きく反映しつつメディアミックスによって一時代を築き上げたという単純な共通点の他に、比較する上で対照的に現れている世代感覚や背景が見られるからです。

そもそもDEATH NOTEという作品は、多くの人がご存知の通り

「名前を書くことで人を殺せるノートを拾った主人公が、新世代の神になることを志し、警察組織などと頭脳戦を繰り広げる」

というストーリです。

主人公の夜神月(やがみ らいと)は当初受験生で全国模試で1位の成績を取るほどの秀才です。彼は殺人ノートを拾ったことで「新世界の神」を志すことになるのですが、手段はテレビで報道された犯罪者の名前をノートに記入して殺すというだけのあまり工夫のない方法。正直なところ、制度的な世界の管理・運営方法に興味があるとは思えません。単に分かりやすい方法で自己表現したと考えるのが妥当です。

つまり、夜神月は実際に何か世界を具体的に変えるというよりは文字通り「新世界の神になる」ことが目的だったのではないか。それは

「突出した才能を示し唯一無二の存在感を示す」ということであり、

言い換えれば「個性」を爆発させて全世界に知らしめる事が目的です。

当時の少年漫画は主人公は利他的に行動し、世界を良い方に変化させることで存在意義を獲得していくものが大半だったので、ここまで潔い利己的かつ自己中心的な主人公は斬新でした。利用できるものはなんでも利用し、その為にポテチを食べながら一文字一文字丁寧に書き込んで殺人をするなど、第三者から見れば面白くなっていても構わないという徹底した姿勢には爽快感がありました。同時に、終身雇用制度が崩壊し始めなにか個人の特性を活かして特別な事をしないと生き残れないようなサバイバル的風潮を感じていた若者から大きな支持を得ると同時に、時代のピエロ的寵児としても大いに愛されました。

因みにデスノート連載当時はスマホが普及していない、どころか国内でiphoneの販売すらされていませんでした。SNSについても「mixi」のサービスが連載中に開始し一部の人が利用していた程度。それも当初はパソコンでログインすることしか出来なかった上に招待制です。現在のように地域、文化、友人コミュニティーとして情報インフラとして機能しているということは全くなかった状況です。

従って、夜神月が作中で強調する

「新世界の神になる」

という目的は共感できる余地があったというのが実態です。

ナンバーワンよりもオンリーワン、オンリーワンということは突き詰めるとそれはナンバーワン、いわゆる神であるという、生き残りを賭けたワンチャンスの個性と受験戦争が悪魔融合したドラゴン桜を地でいくような「個性」信仰が機能していたからです。


【夜神月が神になる一方で、炭焼きの少年はといえば…】


鬼滅の刃は誰しもが知っている大ヒット漫画、及びアニメ、映画としても派生した作品です。

主人公、竈門炭治郎は山奥で炭焼きの家業を営んで細々と暮らしていましたが、ある時鬼に襲われて家族がほぼ壊滅。何とか生き残った妹は襲われた際の事故で鬼になってしまいました。竈門炭治郎は妹と共に鬼を滅ぼすこと、妹を治療することを目的に旅立つ事になるというのが大まかな導入部のあらすじです。

デスノートと比較するとまず気になるのがそもそもの物語の素朴さです。近年最大のヒット作とは思えないくらいにシンプルで、昔話のような作りになっています。

まず主人公の名前が「竈門炭治郎」です。職業がそのまま名前になっている。それも彼自身が選び取ったものではなく家業として、生まれついた瞬間に身の回りにあったものです。火の番をするキャラクターといえばひょっとこが思い浮かびます。ひょっとこは元は火の神でしたが、養育者の老夫婦に報いる為に懸命に火を焚いたせいで口がタコのようになっしまった。ひょっとこが懸命であればあるほど側から見れば面白くなってしまうというシブく味わい深い三枚目の設定のキャラクターです。かまども炭も、どの家庭にもあるもので極めてありふれている。

夜神月が特別なこの世に一つしかないものを詰め合わせて作られた誰にも負けないキラキラネームを背負って最高の個性の寵児として現れたのと比較して、竈門炭治郎は名前からして自己表現をしたい、自分らしく生きたいという欲求がほぼ感じられません。作中で長男である事が明らかになっているのに「じろう」という音の名前であるのも変な話です。


なぜ竈門炭治郎は夜神月のように個性的になろうとしないのか。


それは、既に若い人の間には個性的になろうとしている人があまりいないからではないかと考えられます。


【「個性」とかいうバレバレの嘘】

先日大学で講義をした際に、現代ではSNSがインフラのように機能している為に従来的な形で「個性」を示す事ができなくなったという話をしました。

なぜなら唯一無二と思われたものはSNSに掲載された瞬間に全世界と比較され、万が一それがまだ見ぬものであったとしても一瞬のうちにコピーアンドペーストされて普遍的になり、バズったら翌月には中国で大量生産されるくらいのことになっているからです。こういった背景があるのに唯一無二の個性が自分の中のどこかに存在しているからそれを今からレッツ探そうと考えられる方がどちらかといえばポジティブすぎて頭がおかしいような感じがします。

そもそも「個性」という

「人それぞれ掛け替えのない無二の特別なギフトや特徴を持っていてそれを探し出して出会うことで自分らしく、解放された素晴らしい人生を送る事ができる」

という物語が虚構であって、それを丸ごと真に受けていた人もいるとは思いますが心から全てを信じ込んでいた人がどれくらいいたのかは謎です。うっすら欺瞞の匂いを感じつつも、まあそれが最も角が立たなくて都合が良いというか、最大限他者を侵害せずに人が自立に近づく事ができる取り敢えずの建前として立て付けの悪い玄関のつっかえ棒のようにしていたに過ぎません。世界で一人とは言えなくても人間にとっては目に入る範囲が世界ではあるので町内一位、もうちょっと妥協してクラスで3〜4位くらいまでであればとりあえず個性という事で言い張っておこう。特別な害があるわけではないし。そうやって、桃太郎・さる・とり・キジがそれぞれ3人いる桃太郎のお芝居をクラス上演しているくらいの立て付けの悪さでまあまあやってきた。末期に至ってはそれくらいどうということはない雑な虚構でした。社会に抑圧される個人を解放するという意味合いではそれが極めて切実だった時代もあるのですが極度に陳腐化してしまった現代においては、玄関自体が取り払われて誰も使わなくなったのでつっかえ棒をそこに刺しておく意義が感じられないのが当たり前です。

したがって、学生さんの反応はかなりクールというか、そりゃあそうだろうといった雰囲気で平然と「個性」なき世界を受け入れているように感じられました。(これは私の主観ですが)

筆者の私自身は、個性を尊重する事が何より重んじられるゆとり直撃世代なので、このクールな反応は実際に見るまでは予想していなかったものでありました。建前とはいえ建前なりにある程度の常識の屋台骨を支える構成要素としては機能しているだろうという考えが裏切られたような形です。


【じゃあ何が、「今」】

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