脳がフランス映画の人

たまに他人の脳内に「フランス映画」を感じることがあります。


それは世界に対する取り留めもないボヤキのようであり、

よく聞くと愚痴の形式を取りつつもメインは己の不完全さ、至らなさ等を嘆く自嘲であり、


要するに


「私って “愚か” な人間なの」


ということを口にしているわけですが、

よくよく言っている事に耳を傾けると、何か至らない部分があるわけでなく究極的には


「私は私だからダメなの」


というようなことを言っているのです。

これって別に


「私は私だから最高」


って言っているのとあまり変わらないし本人も楽しそうだから、
つられて私も楽しくなっちゃいます。


こういった

「場の空気を壊さないくらいの抽象的な自嘲をしているが、根本的には楽しそう」

という感じになる人をしばしば見かけるので、私はこういった人々を


「脳がフランス映画の人」


という風に呼んでおりました。

上記の現象はそれはそれとして、そういうこともあると脳の片隅に転がっているだけだったのですが、

先日「ジャーナリストの視点より(佐々木俊尚)」を読んで上記の感想に視座を与えるスゴイ情報に出会ってしまいました。

「アメリカ映画、フランス映画、日本映画の違いってなんだろう」
という疑問に触れている文章です。

要約すると

アメリカ映画(ハリウッド映画)は完璧な物語構造を持った「プロット」の世界であり、

日本映画はコミットしきれない余所者としての「風景」を描き、

フランス映画の中心的なテーマは要するに人間社会の重層性を浮かび上がらせる「関係性」だ。

とあったのです。

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当然例外もたくさんありますが、これはもうナイアガラの勢いで書いてあることが腑に落ちました。

普段の我々って割と、アメリカ映画の脳と日本映画の脳の対立で物事を捉えていることが多いように感じるんですよね。


アメリカ映画的な

「私やこの社会は何か克服しなければならない問題を抱えており、問題を抱えるのに至った理由にはこのようなものがあり、それは克服されるべきであり、神ではない私は不完全だが常に克服しアップデートされていく」

というイメージを持った脳、そして


日本映画的な

「私は私として個人的な考えや情動に基づいて何かの願望を達成するために活動し、時として自分の力だけではどうにもならず何かしらの大いなるものに祈りを捧げたりもすることもあるが、大いなるもの(自然や個人の力ではどうにも変えることができない社会の仕組みや他者の内面など)はそんな個人的情念などというものとは無関係に「他者」として存在し続けるのであった。それが、哀しかったり美しかったり切なかったりする」

というイメージを持った脳の二項対立による物事の認識です。

極端な感じもしますが、これらが場面によって割合を変えながらどちらも存在しているような印象です。

ザックリ東洋的な思想と西洋的な思想の両軸が存在していてバランスが取れてるような感じがしますし、
三人称視点もカバーされて申し分ない。まあ結構、このやり方でいいんじゃないの?

と思っていたのですが、映画マニアの連中はここに

「フランス映画脳」

というすごい概念の脳(物事の捉え方のOSっぽいやつ)を持ち込んできているのです。

この、通常ありえない発想に気がついた瞬間度肝を抜かれました。


そして西洋、東洋の二極相対的発想に凝り固まっていた私自身のものの捉え方をかなりダイナミックに粉砕してくる感じがありました。


何がすごいかというと「フランス映画脳」は

「知らんけど」

と言う感じなのです。

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