正直事件簿 〜拝啓、エンヤ殿〜


エンヤ




ー私の認知内で発生する大抵の諸問題は私に根本原因があり、世間は何も悪くないー


私はこの前提でやっております。全ての問題は、私の根本原因を起点としてその後に発生するので、ひどく快適に毎日の生活を過ごしている次第です。

何故ならば、

お前が悪い、お前に問題があるといった責任追求が万が一どこかしらから私に向けて行われるとしたら、こちらの「問題のない人物でありたい」と思い込んでいる状態を前提として、そうありたかった事実からそうではない実態までの絶対値が主に批判の対象となるからです。

予めこれだもの、諦めていただく他ない。

しかもこちらに問題があるのは事実ですから嘘は申し上げておりません。

世間様の方からわざわざこちらにお気遣いを頂いた時などはありがたいことをしてくださったと大変得な、うれしいこと限りない心持ちになります。

一方で、こちらは全面的に正しく、世間様は大いなる間違いをやっていると考えて日々を過ごしている場合、何も起きていないというだけで自分存在の全てを薄っすらガン無視されているような失望に毎日苛まれるに違いありません。おお、なんとラッキー。よかったわたくしの全てがラブリーな日々よ。

そういったラブリーな日々をつつがなく過ごす中で、私はエンヤのことを考えずにはいられないのでした。エンヤとは、あのエンヤです。エンヤの概念には頻繁に触れているくせに私はあまりその活動実態に詳しくはありません。


※Enya(エンヤ)公式サイトより 確定エンヤ


エンヤを、というか私は全くもってエンヤの実態に詳しくないので

おそらく「エンヤ」であろうと思われるもの、即ち「推定エンヤ」に触れるとき、

どこまでエンヤを信用していいものなのかわからない、輪郭を喪失したような茫漠とした感覚に包み込まれるのです。これが、推定エンヤであることは理解できる。これが、大自然に包まれるようなイメージでもって一般的に共有されていることも理解できる。しかし本当にこれに身を委ねてもいいものなのか、なんなのか。マジであるような。そうでもないような。今ひとつ手が届かない絵に描いた餅のような、自分も絵に描いた餅の絵の中に描かれているのだから食べても差し支えがないような。こんなの大人騙しだ!と考えられるのであれば、話は簡単で推定エンヤ問題はすんなり解決を見るのですが、騙されているとも思わない。一定の合理性というか適切さを感じている。かといって盲目的に溶け合うほどの整合性は無いように思われる。こんなのってエンヤだけ。私にとって(推定)エンヤは特別な存在であります。

我、(推定)エンヤ聴く。故に我、何?

実態に迫る為、エンヤを聴いているときのイメージをできる限り具体的に描写してみようと思います。

【イメージ】

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