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「やりたいこと」をやらなくてOK

 私はよくインスタグラムで質問に回答しているのですが、その中でも多い質問が

「やりたいことを探す方法を教えてください」

というものです。

 なんで多いのかというと、気になっている人が多い割に答えるのが面倒かつ難しいからだと思います。この問題は短い言葉で簡単に答えるのは難しいので、今回はこの問題について根本的なところから考えて回答を試みることにしました。

・探す必要はない

 最初から質問の前提を覆すような話になってしまうのですが、そもそも「やりたいこと」を探す必要はありません。

 なぜならば、わざわざ探さないと出てこない時点で別にやりたくはないからです。これが「活躍してそう感」を出したいという話であれば目的と手段が一致しているのでいいのですが、活躍してそう感だけ出したい人は別にやりたいことを探したりはしません。なぜなら「感じ」が出せればなんでもいいので、やりたいことの内容について葛藤する必要がなく、メディア受けがよくて善人の感じが出せるものをサッと選ぶからです。そこにわざわざ自我やら熱意を介入させる方が損ですから、ひらめいたらすぐに手を出します。なんだか嫌な感じもしますが、変に葛藤がない分割り切って行動できるので、本当にそれだけが目的なら話は早いかもしれません。

 一方で、やりたいことを探したいと考えている人は、もう少し自分がそれをやる納得感や必然性のようなものが欲しいからわざわざ悩んでいるのだと思います。これといってなにか特別なものがあるわけではないけど、なんでもいいとは思えない。どこかになにかあるんじゃないかという期待だけがある。気持ちはよくわかります。しかし、実際にそれを見つけるためには、まずは考え方を変える必要があります。それも、大幅に。

・そもそもどうして悩んでいるのか

 やりたいことをどうやって探したらいいのかわからないという悩みが生じるプロセスについて、順を追って考えてみます。

❶「やりたいことをやっている自分」になりたい
        ⇩

そのために「やりたいこと」が欲しい
        ⇩
「やりたいこと」の内容にはこだわりがないから、選び方がわからない
        ⇩
どうやって探せばいいのか という悩みが生じる

このようにプロセスを書き出すと、やはり

❶「やりたいことをやっている自分」になりたい

という悩みの入り口部分が全体の目的を曖昧にしている感じがあります。

 いいとか悪いとかの話ではないのですが、実はこの願望は願望として成立していないので、ゴールにたどり着くためにはもっと何を望んでいるのか熱心に考える必要があるのです。

・「やりたいことをやっている自分になりたい」 とは

 なぜ願望が成立していないと言えるのか。それは形式としては願望の形になっているのに、具体的に望んでいる内容が判明していないからです。
 つまり、考えが途中のままでも次のステップに進めてしまう言い回しの形式に振り回されてしまっているということになります。例えるならば、住みたい駅も住む人の構成も予算も判明していない段階で

「住みたい家に住んでいる自分になりたいのですが」

と不動産屋に相談する客のような感じでしょうか。実際に客だと向こうもプロなので色々な物件の図面を見せながら願望を探る手伝いをしてくれるでしょうが、この場合は客ではないのでそうもいきません。

 しかし、一体どうして自分の願望がアヤフヤになってしまうのでしょうか。

 実は自分が願望だと思っているものって、あてにならない部分があります。なぜならば願望を抑圧してしまったり、自分の内側にある考えを外側(他人の意見など)に投影して、自分自信は「投影した願望を眺めている人」になってしまうといった願望の取り扱いミスがよくあるからです。なんでそんなことをしてしまうのかというと、全ての願望をむき出しにして生きているとすぐに逮捕とかされて人生が破滅するかもしれないからです。破滅しなくてもやりたい放題して人間関係を失ったら生きていくのが大変です。尿意を我慢するように、自然にあらゆる願望を我慢しているのが法治国家を生きる人間のデフォルトなので、実は願望を探す草の根運動みたいなことを日頃からしていないと実際の願望って見えてきません。
 しかも、日頃の生活の中では自分の趣味の傾向に合わせた広告や流行の情報が次々に入ってきます。それらのちょっとした願望(スタバの新作を飲むかどうかに代表される)を達成するか、それともスルーするか考えているだけで1日の願望処理能力を大体使い切ってしまうのでそれ以上の願望について具体的に考える暇がなかなか生じません。それって確かに悩んではいますが、受動的にお金や時間を支払うかどうか悩んでいるだけで、自分にとって新しく判明していることはありません。
 欲しいもの、やりたいこと、関わりたくない人、いらないもの、家の中に置いておきたくない色、好ましくない時間の使い方、ひとつひとつじっくり考えておかないと、肝心な時に何を優先すればいいのかわからなくなってしまうのです。

・じゃあどうすればいいのか

 「やりたいことをやっている自分になりたい」という発想は特にSNSでは現代人のスタンダード思想の一つみたいになっているので、ついつい普遍的な願望であるように勘違いしやすいのですが、それは実は普遍的な思考停止でしかありません。

 改めて考えてみて欲しいんですけど、お腹が空いている場合のやりたいことっていうのは「お食事」だと思うのですが、その場合お食事をして

やりたいことをやっている自分になっている!!!

という実感はありますでしょうか?

これは、「ない」ケースが多いんじゃないかと思います。
感想は「おいしい!」とかのはずです。(「マズい!」かもしれません)

ずっと片思いをしている人に告って成功し、初デートにこぎ着けてデートの時間に無我夢中になっているときの感想も

やりたいことをやっている自分になっている!!!

ではないと思います。もっと単純に夢心地になっている。
「やりたいことをやっているかどうか」みたいな感想は、暇な人の脳内自分コンクールの審査員コメントみたいな話で、やりたいことに全力になり夢中で忙しい人は全然そんなことを考える時間はありません。

 だから、「やりたいことをやっている人になりたい」という抽象的な願望が万が一達成された(と仮定した)場合も、

目の前のことにのめり込めていないので常に暇で自意識が発達してしまった人間が、自意識の判断のライン上である程度納得ができる状況に到達した

ということしか理屈上は起こりえません。

それでなにか満足できるのかというと、あんまり満足できないんじゃないかと思います。あんまりというか、全く。ひとつも。焦燥感に駆られてジタバタする、暇なのに慌ただしいばかりの自意識を本当の意味でなだめてくれるのは「地位」とか「業種」とか「収入」とか「見栄え」とかそういうものではなくて「没頭」です。「やりたいことをやっている自分」とか、そういう自分が置かれている立場の審査員をやらずに済む瞬間をゲットしないと、抑圧している心の奥底の願望がますますざわめき続けるばかりですし、時間が経つごとに焦りは増して、いっそう願望を直視するのが難しくなってしまいます。いや、身分や見栄えをゲットすることが本気の願望であればガンガン全力でやったらいいのですが、それが心からの望みの人は特に葛藤する必要がなくゴリゴリの立身出世レースを楽しんで生きていられるのでその部分に関しては悩んでないと思われます(そういう人と会話が成立したためしがないので実際のところは知りませんが)。

・夢中になっている状態を維持するために必要な三箇条

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