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インターネットを漂う様々な不適切感情にまつわる表現の提案

・ショックを受けている人の様子は、けっこう馬鹿馬鹿しく見える

 最近つくづく思ったのですが、個人的な事情でショックを受けている渦中の人というのは、側から見たらけっこう馬鹿馬鹿しく見えます。なんでかというと「ショックを受ける」という事態が発生している時点で側から見た場合に起こすべき行動は一つ(気を取り直して今できることをやるしかない)、本人はショックが治るまでどうしたって一定期間ジタバタもがくしかないからです。

 人間がショックを受けると同時に巨大なトラバサミが空中に出現してショックを受けている人を挟んで吊し上げるといった怪現象が起きてくれたら、外から見た印象と本人の心象が一致して非常に助かるのですが、そんな親切な仕組みはないので、(他の人から見たら)虚空に向けて馬鹿馬鹿しいことをやっている人に一旦なるしかありません。

・どの程度馬鹿馬鹿しく見えるかは「運」でしかない

 ショックの原因が自然災害やペットの残念、失業など誰の身にも起こり得るようなものでしたらイメージしやすいので虚空に向けてやっている感はあんまり生じないと思うのですが、これが応援しているVtuberの骨肉の内輪揉めとか、ゲーム実況者の笑えない不祥事などの話になってくると、側から見て空中で一人スマッシュブラザーズをやっているように見えてしまうかもしれません。他人からイメージしやすかろうがそうではなかろうが、渦中の本人がもがき苦しむ辛さははなんらかわらないのに。

 ショックは誰の身にとっても不条理なものでしかないのに、それが社会的にどう扱われるのかまで完全に運でしかない(本人にはどうしようもない事情で決定してしまう)というのは、けっこう不条理に感じます。私としては、ショックの本体はまあ仕方がないのでギリ受け入れられるのですが、それに対する扱いの理不尽についてはなかなか受け入れがたい(しかたがない、やむを得ない、というマインドでは処理しきれない領域の災難)と思うのです。実際に、周囲の人に理解してもらうのが難しいタイプのショックを受けた人物が今この瞬間のショックに耐えるためにさらなるショックの渦中に吸引されてしまう(殴る親、カルト宗教、ホス狂い(※)の人など)という現象はかなりよく見ます。こうなったときの前半部分は本人が選んだことなのである程度仕方がない部分があるかもしれませんが、後半部分については運の結果による残念なので、なにかしらの救済措置があったらいいのにと思うのです。

(※) 殴る親カルト宗教ホス狂い ← 川柳の語感にしてみました

・スカスカおせちという「ショック喜劇」

 このショックが共感してもらえるかどうかの運というのは要するに、ショックの原因が社会一般に共感しやすいものだと悲劇と解釈されやすく、共感しづらいものだと喜劇と解釈されやすい、ということだと思います。

自分事 = 悲劇
他人事 = 喜劇

無情な社会一般の解釈傾向

 ショック喜劇の一例として、スカスカおせち事件があります。スカスカおせち事件とは、お正月にネットのクーポンサイトで予約したおせちが届き、いざ開けると腐りかけのチーズや生ハムのきれはしが申し訳程度に2〜3転がっているというスカスカ具合で、この前代未聞のダイナミック出落ちが連日ニュース番組を騒がせることになってしまったという、いわゆるグルーポンスカスカおせち事件のことです。

 この事件のすごく面白いところは(不謹慎なんですが)多くの人にとって自分の身に起こるだろうとは到底考えられないあまりにも非常識で信じがたいインパクト特大の事件でありながら、同時に実際にスカスカおせちが届いてしまったご家庭の人々は全く笑えず、完全にシリアスな状態におちいるしかなかったという点です。

 そりゃあ、そうですよね。よりによって元旦、親戚一同を呼び集めて以前から予約していた豪華おせちの箱を開けたら『ああ無情』世界の裏路地に転がり落ちていそうなゴミクズしか入っていなかったのですから。
 中には一家だんらんの気まずさをおせちの勢いで払拭しようと健気な画策を繰り広げていたご家庭もあったかもしれません。発注者の精神的ショックは甚大です。そのあとコンビニエンスストアでカニカマや焼き豚などのチルド系食品を買い集めて結婚式の引き出物でいただいたマイセンの大皿に盛り付け「これはこれで、けっこう様になってきたじゃないですか」など会話をしている様子を思い浮かべると、あまりにも切なくて悲しくて面白くて仕方がない。だって、現代の社会一般においてスカスカのおせちなんて普通は届かないから。これは多くの人にとって明らかに”他人事”の領域です。

 これが「スカスカおせち詐欺」として毎年お正月に取り沙汰されるメジャーな社会問題になっていたらぜんぜんこうはならないはずです。

 なぜなら次の正月は我が家にもスカスカのおせちが届くかもしれないから。明日は我が身なんだから笑っている場合ではないんだよ。社会問題として強く訴えかけ政治関係のロビー活動にも力を入れ市民が一体となり根強く糾弾しなければならない。

 要するに、人は他人が他人事でしかない(自分の身に降りかかる可能性が極めて低い)事情で本気のショックを受けているとその様相をエンタメとして捉えてしまう性質があるということになります。

(※個人の感想です)

 スカスカおせち事件については、その馬鹿馬鹿しさのコアにあるものは「おせち料理というフォーマットに対する過剰すぎる期待(信仰)や依存心(特別さの演出をおせち一本に託しすぎている)」なので笑っても全然問題ないと私は思います。正直、ゴージャスなおせちとかいう得体の知れないものに人生の一部を賭けているような人間はふだんからしょうもないことしか考えていないと思いますし、おせち一発で親族の空気をどうにかという逆転の発想になるくらいなら日頃から少しは親切にした方がいいだろ、という気もします。そもそものゴージャスおせち自体も、中央に大きめの海老さえ入っていればゴージャスという価値観がよくわかりません。あとローストビーフに喜んでいる感じも日本人が全体的にうっすら騙されている気がします。開けた瞬間のビジュアルに意味もなく射倖心を煽られるのかもしれませんが、普通にすしざんまいとかに行って好きなものを注文した方が楽しいんじゃないでしょうか。

・ショック喜劇 → いじめ という構造

 社会一般で「ショック喜劇」はエンタメ扱いされやすいという話ですが、もう少し話を発展させると「共感されづらいショックを受けて煩悶している人物はいじめやネットリンチの標的になってしまう可能性を有している」ということになります。

 私自身も以前、マイナンバーカードを取得する過程で生じた悲しみとショック(マイナンバーなのに、相当自分を殺さないと取得できないので「マイ観」に違いがあり過ぎて断絶を感じた)をSNSに投稿したら「役所の手続きすらロクできないバカがいる」という理由で拡散されてしまい、「ガイジ」「草」「こういうのが社会の足を引っ張っている」などの嘲笑コメントが多く寄せられてしまいました。確かにこれは、他の人間からしたらかなり他人事の苦労なので、エンタメ性が高く見えていじめの好材料になってしまったのでしょう。

 これは多少特殊な事例かもしれませんが、このような状況は常に不確実に誰の身にも起こり得るものです。間違っているのは構造としてのエンタメ性といじめの快楽を混同してしまう分別のなさであることには疑問の余地がないのですが、かといってそういう人間の性質を即日なんとかすることもできません。
 私はせめて運以外の部分でなんとかショック喜劇が世間のおもちゃにされないような対策の余地というか、認知上の迂回路を提案できないだろうかと思いました。いくつか考えましたので発表します。

【読んでも読まなくてもいい補足コーナー】認知上の迂回路とは

「喜劇ショック」がエンタメとして機能してしまうのは、当事者の悲しみと外側から見た面白さの間にはメタ的な次元の差(ドラマの中の登場人物とそれをテレビで見ている視聴者のような隔たり)があって、外側から見たときに心理的に安全な距離が確保されているからです。つまり、渦中のショック当事者もテレビの視聴者のような他人事の視点を獲得しつつショックを浴びる(悲劇性と喜劇性を同時に浴びる)ことでこの心理的に安全な隔たりは崩壊し、単純なエンタメとしての機能をなくすことでいじめやネットリンチの危険を回避できるのではと考えたのです。またこの迂回路を設けることで、ショック自体の苦しみを(仮にそれが社会的な共感を得られないタイプのものだったとしても)自己解釈によって対話を生じさせて和らげるという対処が可能になります。つまり、多方面からショックにおちいっている人の孤独を緩和することができるかもしません。

今回考えたショック喜劇対策
・無印ショック
・じぶん紅衛兵
・「東南海沖地震はいつか絶対に来る」
・新しい犯罪のリーダーズ


・無印ショック

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