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「ダサくなる」とはどういうことか

・重要視したほうがいい能力

 現代において、「なにかしたいぜ!」と考えた時に真っ先に必要とされたり求められる能力は、衆目の関心を集める能力、いわゆるネット上の発信力だと思うのですが、筆者はそれよりも先に重視したほうがいいと思っている能力があります。
それは

「ダサいものをダサいと見抜く能力」


です。これは現代社会を生きる人間にとって即座にお金を稼いだり、地位を向上させることに直結しない能力なのであまり重視されていない気がしますが、この能力がないとやっていることがやった先から自壊していきます。

 これはどういうことなのか。

 発信力そのものを軽視しているわけではないのですが、発信力を高めた先には「見られる」という状態が発生します。見られるというのは見る側だけが一方向的に干渉する行為ではなく、実は見るものと見られるものの二者間の相互に影響を与える行為なので、この時にダサいものを「ダサいなァ」と見抜く力がないと、どんどんつまらないデタラメというか、意思なき混沌の方へ自身の価値の体系が押し流されてしまい、結果的に独立して社会の中で生存を許され得るほどの存在意義を失ってしまうのです。すると、手元にあったはずの「価値」は膨大な情報の海に漂う無数の、あるいは最初からどこにもありはしなかったミームの破片と化し、砂漠に眠る砂の一粒と等しい茫漠とした存在に成り果ててしまいます。

 なんだかおとぎ話みたいに聞こえるかもしれませんが、これは創作物に限らずなんでもそうです。こだわりとか矜持とか、美学とか思想とか言い方はなんでもいいんですけど、そういった「私がよしとするものは、これではない」と他者の力を借りずに不本意な外圧を拒む力学を持たないものは、基本的に全て雲散霧消します。特にインターネット上に存在しているものは空間座標上に現れているものより圧倒的に相互干渉の影響を受けやすいので、時に満潮時の水域よりも早く消えます。そうやって、現れては混迷の果てに還っていった無数のものを我々は見てきたはずです。

 ファッションやデザイン、あるいは言葉の使われ方なんかもそうですね。なにが「イケてない」のか、言葉で説明できなくてもいいのですが、本人の魂にとって切実なあり方で理解できていないと強度というものが生じ得ません。この強度を維持する困難さというのは、観測される領域が広がれば広がるほど上昇します。
 例えばミュージシャンのB’zが、「あのB’zの感じ」を他の誰もコピーできない形で保ち続けているのは実はすごいことで、根本には強靭な意志の態度があるはずです。そしてその態度を構成するためにより重要なのは、「何がB’zか」という定義よりも、「何がB’zではないのか」という問いの方にあると思うのです。この問いが立てられなくなった時、確立された一つの表現は形式に堕し、根本的な価値の体系を喪失します。それは見えないところでサイレントに、しかし確実に起こり得ることなのです。

・具体的にどのようなことが起こるのか

 ダサいものをダサいと見抜けなくなったとき、具体的にどういったことが起こるのでしょうか。まず、本人のやっていることが徐々にダサくなっていきます。

「ダサくなる」とは、概ね以下のようなプロセスで進行します。

【ダサくなるとは】

⑴日頃のちょっとしたサボり(物事に正面から向き合わず場当たり的な皮算用で処理する態度)が積み重なった結果、自分の五感で受け取ったものを自分の価値基準で判断できなくなってしまう。

⑵判断ができないので周囲の空気を読んで、その時代や場面に良しとされそうな「 振る舞い / 仕草 」をするようになる。そして、意図がないまま雑多な参照を経て、場当たり的な出力を繰り返す。

⑶結果やっていることに整合性がなくなり、本人もまたそうなっている自分に混乱し、出力の参照にすべき対象やその程度に「ズレ」が生じて「なんだか変な感じ」がジワジワ放出されるようになる。


⑷本人も自身から放たれる「なんだか変な感じ」に気がついてしまい、そのせいでパニックから手数を増やしたり、時流に乗ろうとハッスルして余計に変な感じが強調されてしまう。

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