絶対に実用的ではない「ギャグ」


「こだま」より早いものは「ひかり」でそれよりもっと早いものは「のぞみ」だという。


イメージだけが光よりも早く、すべての物質はそれを複製した出来の悪い模造品に過ぎない。


定向進化という説がある。



一度進化の方向が決まると、ある程度その方向への進化が続くように見える現象をいう。
マンモスのとても実用的とは言えないギャグのような巨大な牙が分かりやすい例だ。

「バビルサ」というイノシシ科の生き物は、牙が発達しすぎて脳天に突き刺さって死ぬ個体もいると言われている。

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自分も、どうせ死ぬなら何かしら尖りすぎた牙で脳天を突き破るくらいの死に方をしてみたいものだと思った。

(後にそれはアマチュア的態度だと気がついた)

特定のパーツだけが発達しすぎて一つの生命体の内部で時系列が狂ってしまうのだ。牙だけが遙か未来へ。ロマンに満ち溢れた未来予知が破滅へと邁進する。

あるいは人間も、脳だけが発展しすぎているのではないか。

脳の発達は目に見える形で現れない。しかしそれはマンモスの牙のようにギャグとしか思えない形で内向的にぶら下がっているのではないか。

破滅する。脳が現実を突き破り破綻とイマジネーションの海を漂う約束された未来へと邁進する。音より、光よりも速いところへ。


そうすると、どうだろう。


マンモスの牙は馬鹿げたオブジェだけど、発達しすぎた脳はオブジェではいられない。そこに発達しすぎたイメージの身体性を立ち上げてしまう。そこに私たちが身体の所在を感じるのは当然だから、インターフェースとしての身体は全て盲腸のような取り残された器官になってしまったのではないか。

だから今日の私たちは常に身体の違和感を拭えずに、バーチャル空間に拡張したりあるいは身体改造を執拗に繰り返したりする。しかし「こだま」を「ひかり」に乗り換えたところで決して「のぞみ」に追いつけない。


バーチャルの空間がインターネットを通じて世界中を漂うようになって一層、イマジネーションにはるか取り残された牢獄の苦悩は増す。


我々は脳以外全身が盲腸のモンスターであり、また肉体だけではなく物質として現れてくる全てが「巨大な盲腸」として現れてくる前提の牢獄に閉じ込められている。

それは色褪せて退屈だ。なぜならそれ自体ただ物質であることに終始しているから。精神性の発露と無関係に物理法則に従っているだけで価値や役割以外のエネルギーを剥奪された生命力のない抜け殻だから。加えて都市空間の物質を何もかも抜け殻にしてしまうくらいに私達は世界に漂う秩序を単純化しすぎてしまったから。



つまらない。全ての物質、ぶら下がっているだけ。



だから私は常に物質が物質であること。そういう約束でしかほとんど成立しない社会性に対して強すぎるコンプレックスを抱いていた。

脳の立ち上げた「イメージ」がないとされること、「見たもの」が写真に写らないこと、美しいもの、素晴らしいもの、輝いているものが何もかも最も近いところにあるのに誰にも手渡して見せられないこと。


身体か、脳か。どちらかをおどろおどろしい化け物と認めなければ矛盾に四肢が張り裂ける。それが、全く、上手くいかない。


それら全てが根深く誰にも伝わらない強烈なコンプレックスを形成していた。
なぜ物質に付き合わなければならないのか。
盲腸のごっこ遊びが真実とされる会話に参加しなければならないのか。
このおどろおどろしい未発達な着ぐるみを脱ぎ捨てることができないのか。
こんなことで死ねるのか。死ぬ瞬間に強い指向性の光を放って消え去りたい。
そういう要望にも対応可能で親族を困らせない葬儀プランはないのか。

という噴飯ものの苦悩を抱えていつも泣きながらごはんを食べていた。

(↑面白いので笑って大丈夫です)

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