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「優しさ」の腐敗 (「人間関係リセット」という現実認識はなぜ生じるのか)

・「いい人」の自慢に励む社会

 以前からしばしば述べているように、現代(特にSNS上)において「優しい人」「いい人」という評価は関係資本や評価資本を獲得するための資源としての性質以外にはあまり機能していません。なぜならば、実際にいい人は周囲にそう価値づけされるための行動に時間や労力を割くということは通常しないからです。だからといって、「いい人」になりたがっている人は常に他人を騙して多くの利益を得ようと画策しているわけでもありません。もちろんそういう人物も中にはいるとは思いますが。

では、なんのために人々はこぞって「いい人」になりたがるのでしょうか。

・贅沢で

 多くの「いい人」になりたいと考える人は、基本的に贅沢でそうなりたがっているのだと思います。贅沢といえば高級な車や宝飾品、それにブランド品というイメージがあるのかもしれませんが、そういった嗜好品は現代ではすでに所有者のステータスを表現する地位材としての役割よりも個人の趣味を充実させる自己満足のための資産という側面が強まってきているのだと思います。なぜならば、贅沢品はほとんどの場合コモディティー化するからです。

 コモディティー化とはなんでしょうか。「市場投入時には高付加価値の製品やサービスと認識されていたものが、市場が活性化した結果、他者が参入しユーザーにとって機能や品質などで差がなくなってしまうこと」です。

 難しそうな言い方ですが端的に言えば、当初は650円で販売されていたマリトッツォが、スーパーの惣菜コーナーに行けば200円で買えるようになることです。今では誰の家にでも大抵はあるようなクーラーや冷蔵庫が贅沢品とされた時代もありました。贅沢品は常に強い需要に押し流される形で陳腐化します。高級なハイブランドが毎シーズン莫大な広告宣伝費を投じてショーを開催したりビジュアルを製作するのは、既製品として市場に流通するブランド品は量産可能な工業製品なので常に新しい印象の需要を喚起しなければすぐに陳腐化してしまうからです。

 高級なブランド品は確かに庶民が気軽に買えるようなものではありませんが、「高級なものをSNSで見せびらかす」という需要に対応する形でレンタルサービスや二次流通、コピー品や法的にグレーゾーンの類似商品など正規店で購入する以外の方法でアクセスする多様な方法が提案されています。ネット詐欺師が資産をアピールするためにこのようなサービスを用いることもあります。高級品だからこそ中央値に近い収入しかない人が気合を入れて買うというケースもあります。SNSでブランド品を見せびらかす=お金持ちであるとは必ずしも言えない状況はブランド品に対してある側面では陳腐化が引き起こされて、地位材としての威光の一部をすでに喪失しているということになります。したがってSNSにコーディネートやファッション性ではなくそれ自体の商品価値を示す目的で載せている人物は、趣味人か極端に自分に自信がない人か詐欺師のいずれかということになるでしょう。

 そもそも、資産家はお金を持っていることが当たり前だし、周りも似たような人が多いのでわざわざ庶民の数ヶ月分の給与で買える程度の服飾品をあえて見せびらかすようなことはあんまりしないと思います。じゃあ富裕層はなにを見せびらかしているんでしょうか。それは人それぞれとしか言いようがない(そもそも見せびらかさない場合もある)のですが、傾向として見られるものは「健康」かなと思います。健康というか、健康的なライフスタイルを掲載している印象があります。なぜなら、どれほどの大富豪でも寿命だけはどうにもならないし、その意味で健康寿命だけはコモディティー化しようがない人類にとって最大級の贅沢品と言えるからです。つまり、清貧を極めた結果健康的なライフスタイルを獲得した人物は、資産家が最大級の価値を置く贅沢品と全く同等のものをそっくり手にしているということになります。

 これで地位やら格差そのものが陳腐化したらとってもよかったのですが、社会生活を営むようになって以降の人間はどうしても周りの人よりもちょっといい生活がしたい、ちょっといいものを持っていたいという欲求を忘れることができないので、贅沢は形を変えて存在します。それが「私はいい人である」と評判を得るという贅沢です。

・「いい人」であるというプチ贅沢

 自分はマザー・テレサほどにはいい人(※諸説あり)ではないが、周りの人よりはちょっとだけ貧困や差別や環境問題への意識が高く、平均的な人物よりちょっとだけ優しくて人格が優れているだろう

 身も蓋もありませんが、上記のような考えが現代における最もありふれた「プチ贅沢」の形の一つであると筆者は考えています。誤解を招きかねないのであらかじめ言及しておきますが、例え周りの人に優越性を示していい気分に浸るためであっても、世界が抱える諸問題について考えたりささやかながらも行動をするのはよりマシな生き方だと思います。最も醜悪なのは、マシになろうとする行為の中に含まれる偽善を指摘することで安心し、露悪的に暴力や貧困や差別を肯定しながらあるはずもない剥奪された万能感を欲し、自滅的な願望それ自体を人類の歴史や行いに投影し、持て余した支配欲を抱え込むウロボロスのような形で間接的に種の滅亡を希求する態度に他ならないでしょう。

 しかし、私はいい人であるという現実認識は目先のちょっとした善行と引き換えに問題の最も根本的な部分へ目を向ける行為を妨げます。

 消費財を製造する企業は自社の製品がいかにサステナブルであるか手を尽くして訴えかけますが、本当にサステナブルな働きかけをしたいのであれば、広告宣伝なんかをやっている場合ではありません。一刻も早く、抜本的な消費流通のあり方を再考すべきですし、製造工場が地球上のどこに存在するかに関わらず同一労働に対して同じ賃金を支払うべきです。そもそも「サステナブルであることを打ち出す広告や製品」それ自体が根本から矛盾しています。それを買う側もたったそれだけで「いい人」になれると考えるとは随分コスパが良い話ですし、お気楽な印象です。これって本当に「大量消費こそジャスティス」と考えているよりはどこかしらマシなのでしょうか。程度の問題ですからどちらがどうとは誰も言えませんが、「サステナブル」という言い訳を思いついたおかげでサステナブルではない生産消費流通の構造を延命治療することに成功した、という見方も可能です。というか、現状に照らし合わせると現実問題として残念ながらそうであるとしか言えません。人類は少しずつマシになっているとは言え、マシの歩幅があまりにもささやかですから、このまま破滅的な現状を温存し技術革新で根本的な問題への対応策が編み出されるかそれとも種が滅亡するかのチキンレースに全員暗黙の合意の上で乗っかっているとしか思えない状況です。

 私はなにもこの場で環境問題について訴えかけたいのではありません。市場という規模で見たときには「市場全体でいい人ごっこをしながらサステナブルという流行を消費する」という出来事がひとつあるわけですが、これを個人に置き換えても規模を変えて全く同じようなことが起きていると思うのです。私はこれを「腐敗した優しさ」と呼ぶことにしました。
 

・腐敗した優しさ

 筆者が腐敗した優しさの一例と考えるものに「人間関係リセット症候群」という語句に対する言及や言説があります。「人間関係リセット症候群」とは、文字通り人間関係をある時点で断ち切って全て無かったことにしまう負の行動パターンを言い表したものです。この語句は2022年11月下旬頃にツイッターでトレンド入りをし、盛んに言及されました。特に定義が定まっておらず、ある部分の市民感情や時代感覚が反映された巷の言説に過ぎないのですが、「優しいからこそリセットしてしまう」「繊細だからこそストレスを抱え込んでしまう」など、リセットをしてしまう側の心の視点で語られていた点が印象的でした。

 この言説に対して、筆者が違和を感じたのは以下の点です。

⑴一方的に音信不通になったところで、人間関係が最初から無かったことのようにリセットされる訳ではない

⑵リセットされる側からしたら優しくないと言える行為が、優しさに端を発して行われたことになっている

⑶「優しい人でありたい」という考えは、現代において「他の人よりもちょっとプレミアムで贅沢な自分になりたい欲求」でしかないので、そうでありたい意図自体をもって本人が優しい人であると規定できない

⑷理想的な自己(優しい人)と理想的ではない自己(迷惑な人)の現実的な行動内容の差を、認識を歪める形でウヤムヤにしている

ある部分似た言い回しとして「ゼロカロリー理論」というものがあります。この言い回しは漫才師のボケに端を発したものですが、本来はゼロカロリーではない食べ物を無理やりな理屈でゼロカロリーと言い聞かせることで

・こうでありたい自分=節制して健康的な生活を送っている自分
・こうなってしまう自分=好き勝手に高カロリーのものを食べて幸せになっている自分

の二者間に現れる矛盾を前向きに肯定しユーモアに昇華しているものと言えるでしょう。

人間関係リセット症候群という言い回しも基本的な構造は同じです。しかし、矛盾への態度は正反対であると言えます。

・こうでありたい自分=優しくて他者を尊重する自分
・こうなってしまう自分=好き勝手に振る舞い人間関係を絶ってしまう自分

この二者間に現れる矛盾に目をそむけ、現実への認識を都合よく歪めることで理想と振る舞いのいいとこ取りをし、そのまま周囲との関係を断ち切ることでそれによる不具合を全て無かったことに(リセット)しているからです。

 願望と現実の見分けがつかなくなってしまう状態は、例えばギャンブルに熱中している人の思考過程にも見られるものですからそんなに珍しいものではありませんが、ギャンブル依存症の人物と自分は優しいと思い込んでPRしている人物の間には一つ大きな差があります。それは、「いい人」と言われたら誰もそれを否定できないし、少なくともそうでありたい意図自体は支持せざるを得ない、という点です。

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