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本は全部読まなくて OK 〜応用編〜

最近、以前にも増して

「本が読めなくて」

「本が読みたいんだけど……」

と言っている人をよく見る。そういう人は「集中力がないから」「頭が悪いから」本が読めないと考えていることが多いけど、全然そんなことはない。本が読めることと賢さは全然関係がないし、集中力があるかどうかの話でもない。よくよく本が読めない人の話を聞いていて気がついたことがある。

単に、「本の選び」で失敗しているのではないか


私は「読めなさ」の大半はここに起因していると考えている。

論点は2つある

⑴マニア度が高すぎる
⑵「読みたい」本ではなく「読んでいたい」本を選んでいる

⑴マニア度が高すぎる

 本には「マニア度」がある。専門性の度合いって言った方がより正確だと思うけど、そういうとまた「専門性が高い本を読んでいる人の方が偉くてカッコイイ」という風潮が発生してしまうかもしれないのでここでは「マニア度」と言うことにする。

 例えば英語の勉強なんかでもそうだけど、人は初見のものに触れる時、自分のマニア度を実際よりも高く見積もってしまうことが多い。

 何でこうなるのかというと、多くの人が「自分は少なくともこれぐらいの実力でありたい」という自己実現欲求と現在の自分の実際の能力を混同して考えてしまうからだ。これはすごく理解できる。私も、今になって考えてみると、この混同によって挫折した趣味がいくつかある。特に「これができたらきっと素敵だろうなあ」と、やること自体よりもやっている自分に憧れている時この現象は起こりやすい。

 クローゼットの中身が素敵だけど着れない服ばかり、という人もこのパターンの挫折に当てはまっている可能性が高い。今の手持ちの服やコーディネートレベルで上手く着こなせる服よりも、この服が着こなせたら素敵だろうなあという気持ちに合わせて服を買ってしまう。難易度の高い服は自分を引き上げてくるパワーにもなり得るし、いい側面もあるけど、実力より高レベルの服に手を出していることに本人が気が付いていないから、いいと思って買ってきた服を着れない自分にモヤモヤするし、期待を裏切られてガッカリしてしまう。さらには、そのストレスでもっと服を買ってしまったりする。この場合は「この服は実は頑張らないと着れない服なんだ」と自覚するだけでかなり話がシンプルになる。

物事は、シンプルに考えればわりと解決する


 本でも全く同じことが言える。同じようなジャンルについて書いてある本でも、マニア度には雲泥の差があるし、本にはマニア度が表示されているゲージなどもない。この「マニア度」は文章自体の難易度とはまた別なので、すごく平易な文章で読みやすく書いてあるのにマニア度としてはものすごく高い本も全然ある。本を書いている人はそのジャンルの中ではかなり強いマニアなので、実は自分がどれくらいマニアなのかよく分かっていなくて、一般的なことを書いているつもりなのにマニア向けになっているということもしばしばある。その辺りは読者の側が意識して、「ここは特にマニア向けだからそこまで理解できてなくても大丈夫だな」という判断をしなければならない。読書にはこういう難しさがある。だから「本は全部読まなくてOK」という表題は励ましや気休めで行っているのではなくて、本当に実質的な意味で全部読まなくていい。むしろ、読まなくていい部分を見分けられるようになることが読書の意義だと思う。本をたくさん読んでいる人は、読む部分と読まない部分を見分けるのがうまい。読まないというか、一応目は通しているけど自分の「読み」までは加えていないということが多いのではないか。私の経験上では最初の一行から最後の一行まで隅々ものすごく面白いという本は100冊に2〜3冊あればいい方という感じで、残りうち70冊くらいは探せば思わずのめり込むような素晴らしいくだりがどこかにある。残りの30冊くらいは読む価値が感じられなくて、5〜6ページ読んだ時点で今の自分には必要なかったなと閉じる。

 知識にも「相場感」のようなものがある。築地に初めていった人が右も左も分からずにウロウロするしかないのと同じで、知識の相場感がないジャンルで急にマニア度の高い本を手に取っても、自分の「読み」を展開できずに呆然と立ち尽くすしかない。そうなるとストレスが溜まってしまうから、また新しい本を買っては積んでしまったりする。ストレスで積み上がった積読に嫌気がさして、もうスマホしか見れなくなってしまうのは仕方がない事だから自分に失望する必要は全くない。方法はある。

⑵「読みたい」本ではなく「読んでいたい」本を選んでいる

 ここまで読んだ人は理解できると思うけど、実は⑴も⑵も同じ現象の違う側面でしかない。

「何か、自分を素敵にしてくれるサムシングはないかなあ」


と考えること自体は楽しいし、悪いことでもないけど、いつもこればかりで生きていると新しい広告を見ては喚起された欲望を吐き出す消費の抜け殻のような主体になってしまう。生活の中にSNSが張り巡らされている。SNSが張り巡らされているというよりは、情報インフラとSNSはもう完全に溶け合って区別がつかなくなっている。YouTubeはSNSでもメディアでもあるし、ニュース番組には SNSの情報が表示されたいたりする。どこからどこまでがと区別をつける事すら難しいというか、意味がない。Twitterでさっきトレンドになっていたものがもう商品化されているし、バズった概念は気がついたら広告に取り入れられている。こっそりいいなあと思っていた変な看板が、朝起きたら皆さんおなじみのネットミームになっているかもしれない。自分にとっての真実が無限に複製されて、なんだか安らげないものへと変質し続ける。

 そういう世の中だから、自分にも世の中にも疲弊しない為に自分の中にトレンドをガン無視できる心の強い部分があったほうが楽だろうと思う。最近、純喫茶やレトロのブームが起きているけど、これもトレンドやネットミームに囲まれて疲れているSNSネイティブ世代の人が、駆け込み寺のように世間の時間の流れを無視して逃げ込める場所を探しているからだと思う。逃げ込もうとした先がまたトレンドになってしまうから、どこか八方塞がりの感も否めないけれども。

 この八方塞がり感は、本が読めなくて困っている人たちの葛藤とどこか似ている。今の社会ではマニア度(専門性)が高い人がかっこいいとされているし、お金も稼げる。むしろ、専門性を身につけないと「マックジョブ」とか呼ばれる低賃金労働で死ぬまで働くしかなさそうな張り詰めた空気感すら漂っている。

 私はマクドナルドのポテトを揚げる仕事も高度に専門性を有する技術職の一つ(マクドナルドのポテトはロットによって美味しさに果てしない違いがある!)だと思っているけど、世の中に評価されないタイプの希少性を有していたところで尊敬もされないし、お金も稼げない。だから手っ取り早さと手っ取り早くなさを同時に要求してその両輪の矛盾に押しつぶされて精神的な、というよりもっと奥の方にある肚(はら)というか、魂が安心して今この瞬間の人生を全うできる時間軸を得られないというか。そういった、あらかじめ失われた喪失感・失望感のようなものを抱えざるを得ない。少し抽象的な話になってしまったけど、私が言いたいことはたった一つで、読書が複雑になりすぎている。もっとシンプルでいい。

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