見出し画像

シリーズ:個性の大学 Ⅵ  誰にでもできる分かりやすい破滅のやり方


 美術大学に通ったり、フリーランスで仕事をしていると、時に破滅する人を見ます。「破滅」とは。なんでしょうか。判然としません。でも、あるのです。「破滅をしているな」と周囲からの共通認識が生じるような状況が。日本で生活をしている以上は、生活保護を受けて過ごすことも可能なはずです。だから、即時的に生存を脅かすような絶対的貧困は起こりにくいのですが、相対的貧困、それも、物質的なものではなく精神的側面の相対的貧困によって引き起こされる破滅があるのです。「相対」とは周りと比較して自分はどうかと考える物差しのことです。従来的には、生活圏で目に入ってくる人々と自分の比較によって形作られていた相対性が、SNSでたまたま目についた人、それもかなり主観的に構築された成功者と自分の比較という相対になっている点に問題の根本があります。

自我が外圧に歪み、自己矛盾の果てに音を立てて「破滅」する、という現代的な破滅。

この新型破滅とは、具体的にどういった状況を指すのでしょうか。また、はっきりとしなくても、上記のような状況に少し心当たりのある人もいるかもしれません。原因や対処法について詳しく述べていますので、是非本文を読んでください。


・「俺はいいけど、矢沢はどうかな?」現象


「俺はいいけど、矢沢はどうかな?」とは、あの有名なロックスター矢沢永吉さんが、ホテルのスウィートルームがブッキングできなかったことを告げるスタッフに返した言葉とされているものです。つまり、個人としては庶民的な部屋でも一向に構わないんだけど、ロックスターとしての矢沢永吉は、ファンやメディアの期待に応え続けなければならないので、そうなると庶民的な部屋というのは、あまりちょっとふさわしくないのではないでしょうか、という複雑な意図を端的に一言で伝えているわけで、さすが返答にもカリスマ性がありますね。これが矢沢永吉さんだったら、ロックスターという職業柄当然それはそうだろうと思えるだけの合理性があるのですが、この「矢沢はどうかな?」という意識を、別に矢沢でない人も過剰に持ちすぎているのが、新型破滅の根本的な原因と言えます。

 つまり、個人的なわたくしの他に、何をしていても周りから見られている、公的なものとして取り扱われる大文字のわたくしのようなものを多くの人が纏っているために、自分にとって必要な仕事の内容や、生活環境以上に、いわゆる「マイ矢沢」にふさわしい暮らしやステータスを求めすぎてしまっているという問題が生じているように思うのです。


・アルバイトをしている「自分」なんて、「自分」じゃない


「アルバイトを辞めた時に、私は私になった」

という趣旨のことを、タレントの方が言っているのを見かけて、心の奥底に得体の知れない違和が生じたことがあります。これは要するに、芸能の道を志し、芸の収入が増えてアルバイトを辞めることができたその瞬間を「プロになった瞬間」と捉えているということです。

 それは、つまり今自分が何をしているかという「to do」よりも、今自分がどう存在しているかという「to be」の方が「自分」になっているということです。本来、立場や社会的評価で存在証明をしたい人は、もっと堅実で分かりやすく社会的なステータスを満たせるような職業に就くことが多かったと思うのですが、芸能という自己表現ができる職業を志しているのに「to be」で自分の存在を測ろうとしている点に、不合理さや、現代的な虚無感・徒労感を見出してしまうのです。

 特に今の20~30代の方には、目指している職業があるが、その為にバイトをして生計を立てている「自分」が許容できない、という考え方の人が多いように感じます。SNSが普及する以前にはこのような「夢を追っているのにバイトをしている自分に負い目を感じる」という発想はあまり見られなかったような気がするのです。むしろ、「堅実な職につかずアルバイトをしてでも夢を追っている」という自己認識を補強する形でいわゆるフリーター像が機能していたように思います。


・見られ方としての「自分」

 例えば、地方議員をやっている政治家が引退前に一つくらい故郷に箱物を建てて、レガシーを残してから死のうかな、みたいな発想ってよくあると思うのですが、なんだこれに似ています。コロナ過に無理して開催した結果あまり盛り上がらなかった東京オリンピックも同じ発想の範疇に入るでしょうか。内実はどうあれ、公に認められる事実として、書類に残る事実として、何か打ち立てた感じを残したい。これが、夢を追っている人の内心のボリュームとしても目立つものになってきているような印象があるのです。もちろん全くこのような考えとは無縁で生きている人も沢山いるのですが。

 やはりこういったレガシー的な発想も、マイ矢沢的思考に引き寄せられる形で浮上してきているのですが、ここに破滅の原料、油田が湧き上がってきている。具体的にどのような破滅の形があるのか、モデルケースを示します。

何か表現する職に就きたいと思いつつ、美大進学するほどの思い切りはなかったので都内の文系大学の芸術学部に入学したAさん。在学中に自分にできることを模索しながら、発展途上国の支援についてYouTubeで発信する活動を始める。同時にマイノリティーに関するイシューを述べるライターとして活動を始め、ポエトリーリーディング作家としても活動しつつ、小劇団の役者としても活動。ツイッターでは短歌・自由律俳句の発表をメインに活動し、幼少期に習っていたピアノ演奏の技術を活かし、即興演奏と水墨画のコラボを実現。

※実在しません

読んでいて、心臓が痛くなりますね。誰かのことを書いているわけでもないのに『車輪の下』のような苦しい苦しい読後感。説明しなくても、Aが破滅の沼にハマりつつあるのは明白でしょう。これは現代に生きる我々にとって誰も他人事ではない根深い問題なので、Aを笑ってはいけません。何が問題なのか、真摯に向き合って考えなければいけない。(Aが実在していないのでよかった)

問題は、以下の一点に集約されます。それは、

なにも諦めなかったこと


これに、尽きるのです。


・「諦めて!」 (逆真矢みき)

 残念ながら、やりたいことがある場合、諦めなければいけません。何を諦めるのかというと、自分にとってどうでもいいことのどれかです。よく「何かを志す場合にはそれだけ一つに絞って打ち込まなければならない」といった職人的なイメージがありますが、これは案外そうでもありません。特に現代では得意分野がいくつかあるとかえって仕事の幅が広がりますし、その中で自分に合った形の仕事を見出すこともできるので、積極的にやりたいことがいくつもあるのは破滅の原因にはならないのです。しかし、

ここから先は

3,557字

¥ 500

よろこびます