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水野いや伝 どこまでいっても、なんかやだ ⑴

水野いや伝「どこまでいっても、なんかやだ」は「いや」にフォーカスを当てた記録です。連続だとムードがよくないので不定期で続きを書いていきます。よろしくおねがいします。


 初めて場の状況を自覚できるようになった瞬間はこうだった。私は横たわっていた。頭上にはおもちゃがぶら下がっていて、ばあやが子守唄を歌っている。当時は「子守唄」という概念がなかったが、なにかしらの魂胆、企みの感情、穏やかではない意図を向けられているんしゃないかということを感じた。

ぼうや〜よいこだ ねんねしな〜

とにかく感じが悪いと思った。性別の概念もはっきりとはなかったが、なにか自分が「ぼうや」ではないサイドとして扱われている雰囲気はうっすらとあったので、「ぼうや〜」じゃないんだよという感じがした。また「よいこ」についても、乳母がこちらがよいこだと信じきっているというよりは、寝ていただく報酬として「よいこ」という称号を与えようとしている見下し、一段上からの余裕を感じた。それらを言語化するだけの能力が当時の自分にはなかったので、言葉にならない反抗的な精神が湧き上がった。思う壺にはならないぞという決意の念。上体を起こしてなにか意思を表明したいという感じのことを思ったが、気がついた時には眠り込んでいた。しばらくはそれの繰り返しで、最悪の日々だった。「ぼうや〜」じゃないんだよ。しばらくすると、同じサイズ感の人間をしばしば見かけるようになったが、全員音が出る棒を目の前で振るなどのバカにされているとしか思えない行為で大喜びしていて話にならないと感じた。ベビーカーのデザインも嫌だった。こちらの気も知らずなんだか面白がりやがって。サイズが小さいのがそんなに面白いのかよ。本当はもっとオシャレで都会的でモダンなデザインがよかったが、言葉も知らないし平成が始まったばかりの日本の片田舎にはそんなものひとつも存在してはいなかった。目につくもの全てが愚劣だなと感じた。「愚劣」は父の常套句だったので人生の初期で知った。かなり多くのものに当てはまるので、便利だった。

 保育園に通うようになると、いっそう愚劣なものが増えた。まずそもそも、場にいる全ての人間が愚劣であった。保育士は常に怒りの形相をむき出しにしていたし、私に「泥」で遊ぶように指示をした。泥で遊ぶとは。よくわからなかったので理不尽な思いに全身を包まれたものの、どうやらそれが当たり前の現実として共有されているようだったので、止むに止まれず泥で遊んだりした。楽しいか楽しくないかといえば、やや楽しいが、衣服を脱ぎ下着のみで目的の定まらない行為を集団でやっている状況はどう考えても「愚劣」に該当するなと思われたので屈辱的でもあった。なんのためにこれをするのか。意味がわからない愚劣集団。1〜10までがこの始末。早く泥で遊ばないで済む立場になりたかったが、泥で遊ばせている立場の大人も常に怒りの感情に支配され全然楽しくはなさそうであって、この辺りの全てから一刻も早く離反したいということを日々考えるようになった。またこのころから家でも園でも男性が偉そうに思いついたことを大げさな口調で発表したり、根拠なく自分がかしこいと思い込み誰でも知っているような知識を大げさに発表しているなと感じ、つまらないので会話を避けるようになった。会話からは新しい発見がないと気がついたので、大人からの言説はほぼ全て無視して「情報」に注視するようになった。情報といっても当時はインターネットが一般家庭に普及しておらず、ガラケーどころかポケットベルすらない。家や保育園にある本を読んだり、ラジオ、TVのニュースなどに注意を向けるくらいのことしかできなかった。家庭内ではNHKのラジオニュースがよく流れていた。毎日注意深く聞いていたので、喋り方のイントネーションがNHK寄りになり、周囲の人の話し方とはと違う感じになった。「為替と株の値動きを示すトピックス東証株価指数」これが、幼児期の印象的なフレーズランキング1位。変化がない箱庭に閉じ込められているような感覚が強くあった。状況を変化させるためには少しでも知らないことを知りたかった。とにかく必死だった。

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