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シリーズ現代の困難 「エモさ」にまつわる困難

 私は「エモい」という情緒の捉え方には一定の、慎重な判断ができる程度の距離を置いて接しています。理由は単純に「違うな」と思うからです。この「違うと思う」という考え方は、「エモい」という情緒の認識にすでに覆われた態度越しに見ると「自分の人生が一回性のかけがえのない、ほかの誰にでも再現不可能なものであって欲しいと願いながら、ほかの誰とも変わらない情緒を繰り返す人間の儚さ、エモさ」ということになる(希望を持つことと敗北、失望、喪失の感覚が分かち難くイコールの関係で結ばれている)のだと思いますが、この場合私は明確に根拠があって「違うな」と思っています。違うとは、極めてシンプルに申し上げるならば「自分の考えはもう既に世界中にネタバレしてしまっている」という考えは、謙虚なあきらめではなく受け身な鈍感さだと考えているという話になるでしょう。

 そもそも「エモい」とは「それとわかってて、あえてベタな、新しさや独自性のない情感を味わっています。その中に逆説として人間の儚さを再発見しています」という態度(情緒自体というよりそれを味わうスタンス)の表明に他ならないわけですが、このような態度がブームになる背景はいくつかの視点から非常によく理解できます。理由を列挙すると以下のようになるでしょう。

・同じフォーマットの生物(人間)が同じフォーマットの媒体(スマートフォン)で発信している(日本語話者だけで1億もいる)
・ネットの発信は既視感が強ければ強いほど反応がいいので、わかってる感を出しながら既視感が強い発信をするのが多くの反応を得た上で自己主張するためには最も合理的である
・ハズレくじを引かなくてすむ。少なくともありふれてはいるが、つまらなくてダサいということにはならない
・要するに「すでに奪われてしまった一回性への祈り(ポーズの場合も含む)」なので、その場における結論を出さなくて済む
・ありふれた情感の話なので、他人から余計な文句を言われずに済む
・主題が「人間の情緒がありふれ切っている事実への祈りや慰め」なので一生懸命差別化をしなくても特別な主役感を信じられる

 ここでひとつの論点になってくるのは、「すでに奪われてしまった一回性への祈りを切実に行う人間の命(時間)には一回性(再現不可能な固有の時間軸)があるのか」という問題ですが、筆者はそれは「ある」と考える立場です。厳密にはこの部分を「ない」とする考え方もあるとは思うのですが、その範囲の考えについては今回は扱いません。なぜならば、その前提すら否定する人物には早いところ現在の人間の前提(再現性のない時間の流れを生きて死ぬ)を逸脱してもらって効率という強迫観念において駆動する社会のシステムの一部になって頂いた方が不毛な争いが生じずに全体がいい感じになるんじゃないかと考えているからです。

 なんでこうなったのかというと、それは「わからない」の領域が過剰に特権化された結果、反動で「わかる」の領域が過剰にカジュアルなものとして取り扱われているからだと筆者は考えています。

 「カジュアル」みたいな言い方を急にされても全くピンとこないと思いますが、この場合は「地球全土がグローバルスタンダードな共通認識に覆い尽くされてしまって、どこで何を見聞してもあらかじめある程度は理解できてしまう」という薄ら寒い絶望感や、独自の解釈をさしはさむ余地をあらかじめ喪失した網に各自が編み込まれながら孤立している疎外感を指しています。

 この、自分が価値判断をする以前にあらかじめ配分されてしまっている喪失感のようなものは、ある程度現代の地球全体で共通だろうなと思う一方で、しかし「カレーライス」という料理にみられる土着性の程度くらいには土着的でローカルな感覚なんじゃないのと思うのです。なぜならばエモいという語感の背景には以下の二点の前提があるように思われるのですが、

⑴人間の情緒はどこかで見たようなありふれたつまんないものである
⑵情緒にいいとか悪いとかはない

⑴についてはネットインフラの影響である程度共通してそうなるだろうと思う一方で、⑵については土着的でローカルな感覚であるように思われるからです。

・「情緒にいいとか悪いとかはない」というローカルルールとは一体なんなのか

 小学校で「みんなちがってみんないい」という話を脳の記憶領域の一部がすり切れるくらい口酸っぱくして聞かされているので、なんとなく共有されている前提(善良な市民として社会に見せておく無難な態度)として

ひとりひとりの感じ方はそれぞれ違うけど、みんなちがってそれぞれにいい

という社交辞令的な感覚をある程度身につけています。この社交辞令は「テストの点数や知能などの理屈で説明できる部分には目に見える優劣があるかもしれないけど、情緒の面での感じ方の違いには優劣がなく等しい価値を持っているよ」という話をしているのでそこまでわからない話でもありません。

 しかし、この前提は建前にしても結構筋が通っていません。特におかしいのは以下の二点です。

(A) 感じ方の違いが生まれつきの人間性の前提のようになっているが、経験や知識や身体的制約の幅が少なければ感じ方は同質化せざるを得ない

(B) 違う感じ方が同程度いいということは(なにをいいとするかの基準によるが、「いい」という基準が存在する時点で)基本的にない

 平等をお手軽に説明した雰囲気を出すための苦肉の策とはいえ、結構な筋の通ってなさです。やはり情緒の面にも理屈と同様に腑に落ちる、納得がいかない、面白い、つまらない、などの質の違いが(当たり前ですが)存在します。

 そういった質の違いをスルーして「情緒=いい」と思わなきゃいけない、少なくとも思っておいた方が表面上は角が立たなくて無難という感受性発露上の制約が設けられている状況が土着的でローカルな感覚を発生させているのではないかと思うのです。

・「つまらないけどわかる」情緒の表現

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