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シリーズ個性の大学 ex. 「言わせない感」という牢獄〜ガラス張りの万能感の中で〜

なぜ「個性の大学」を書くのか

前回「言ってる感・やってる感」について書きました。これは「表現の中でなにも言っていないにも関わらず、なにか言っているような態度だけが誇張された振る舞い」のことです。具体的には耳新しさだけがあるスローガンを作ってみたり、さほどやりたくもないし実態も伴わないキャッチコピーを名乗ってみたり、なにか上昇トレンドであるように見せかけるために小旅行を大げさに喧伝したりする行為を指します。つまり前澤友作氏の月面旅行について、少し遠い熱海旅行のようなものだと申し上げたのですが、


これについて

「資本主義の世の中で、正しい振る舞いと思います」


とコメントを頂きました。当たり前ですが、私は正しいかどうかの話はしていません。

そんなことだから人生が「言ってる感」に終始するのではないか、と個人的には思います。ビジネスも大変結構ですが、自分という利潤追求機構の時価総額を最大化することだけが人生だと考えているから、人生に正解と不正解があるといった錯覚に陥るのではないでしょうか。一人の人間が巨大なシステムの中でマーケティングされ尽くした振る舞いを履行する経済実態の最小単位として優秀であるかどうか、を考えたいのではないということです。そうではなく、いかに自分が納得する人生を自分自身の手で得ていくか、という話を本気でしているので、このような即物的な横槍は、ありがちですがなんとも迷惑です。

個性の大学 ⑴のコラムにも書きましたが、なぜか大企業に感情移入したり、経営者の視点で物事を見ることだけが真実だと考えていらっしゃる方もいます。それはそれで結構ですが、それでは得られなかった自分の人生に対する納得感をある時期、即席で得ようとして焦ってしまう方がいます。それは必ずしも本人の責任ではありません。小学校〜高校まで主体的な感情や意志を隠蔽するような社会的態度を徹底して教育された上で、


「どうしてあなたは好きなことで生きていかないんですか?」


という、揺さぶりをかけられてしまったら(マーケティングされた煽りといってもいいでしょう)、誰しもが不安になるはずです。これでいいのかと心細くなり、がむしゃらになにかに取り組まなければならないとオンラインサロンに加入するのもやむなしです。私はそれではフェアではないと考えます。少なくとも、何が「個性」なのか、どうすれば自分の心を隠蔽せず物事に取り組めるのか、人生に納得できるのかについて、一から改めて考えたいと思ったのです。

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