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『他人の大学』 出来るだけ嫌われずに生きていくための、マシな人間性マニュアル 

~まだ間に合うかもしれない~

 自分なりに頑張って人と関わっているつもりなのに、なぜかいつも嫌われてしまう。最初は好かれるのに、時間の経過とともに距離を置かれ、やがて周りに人がいなくなる。友達ができない、自分だけいつも浮いている。会話に混ざろうとすると、なぜか場が静まる。

 あなたはこのような悩みを抱えてはいませんでしょうか。程度の差はあれ、どれも大変つらい悩みです。なぜなら距離を置く人は、どうして距離を置くのか絶対に教えてはくれないからです。人間は大人になると、大抵のことを自分で察して理解していくしかない状態に置かれますが、こと、嫌われの悩みについては特に、理由が明らかになることは滅多にありません。なぜならば、ただでさえ大人は何も教えてもらえないのに、嫌われている場合より人から親切に教えてもらえないからです。

 しかし私は、嫌われることになってしまう人は、ほとんどの人が同じような考え方のパターンを持っていることに気がつきました。つまり、結果的に引き起こされる問題には様々な形があるにせよ、それを引き起こしている物事の捉え方は、だいたい同じような地点に収束するということです。それは、何か。

一言で表すならば、「お客様目線」と言えるでしょう。

このように嫌われる原因になる行為の根本にある考えは実はさほど複雑なものではありません。お客様目線が具体的にどういうことなのか、分かる人にとってはすぐに理解できるでしょう。しかし、なんだか心当たりはあるけど、何がどう問題なのかいまひとつピンとこない場合、何をしたら嫌われるのかについて考えるよりも、どういった考えのもとで起こした行動が嫌われる原因になるのかを知った方が話が早い。このような考えから、私は『他人の大学 出来るだけ嫌われずに生きていくためのマシな人間性マニュアルを書くことにしました。

今心が粉々になっているあなたにも、絶対にマシに生きていける道はあります。突きつけられる現実はなかなかに過酷かもしれませんが、一刻も早く知ることで孤独死の可能性を大いに減らすことができますので、ぜひ最後まで読んでみてください。

・「嫌われたくない」という動機は最大の身勝手


嫌われたくない。できるだけ人から好かれたい。

人類が社会性を足がかりに繁栄した生物である以上、周りの人に好かれていたいという願いは至上命題とも言えるでしょう。とてもよく分かります。

ただ、これがいけないのです。この、「他人に嫌われたくない」という単純な、心の叫びのようなシンプルな願いが、数多くの嫌われる行動を生み出してきたという事実を我々は直視しなければなりません。なぜ嫌われたくないという想いが真逆の結果に繋がってしまうのでしょうか。

理由は単純で、「嫌われたくない、好かれていたい」という考えや、そこから生じる行動パターンは、かなり自己中心的で身勝手だからです。そもそも、嫌いになるかどうかは(それを表沙汰にするかどうかは別として)他人の自由です。嫌いな感情が生じる理由も、誰でもそうなるだろうという当然理のものから、誰にも共感できない独自すぎるヘイト感情までかなり幅広く存在しています。他人に対して選べるのはどの程度の距離で接するか、というところまでで、自分に対する感情を指定しようと試みる行為はものを盗んでいないだけでカツアゲのような行為なので当然嫌がられます。

 「嫌われたくない」という感情で頭がいっぱいになっている人は、自己保身や自己愛でがんじがらめになり、他人がどう考えているのかを想像する余裕が全くありません。そうなると結果的に「自分にとって、こうあってほしい理想の他人像」を強引に押し付けようとしては拒否され、余計切羽詰まった状態でまた別の人物に理想を当てはめては玉砕し、全てを失うまで終わらない末期の旧日本軍のような最悪の行動パターンに陥ってしまうことがあります。側から見ていれば、あんなのやめればいいのにね、という感想でカタがつく話なのですが、本人からしてみればそうはいきません。人間にとって、社会性の中で一定の承認を得ている状態を保つということは衣食住の確保と同程度に深刻な問題ですから、本人が社会的な承認を失うかもしれないと思いつめている状態は、言ってしまえば遭難した登山者が食料確保に必死になっているような精神状態なのです。そのような状況であればまずは落ち着いて、自分は食料を全く持っていないので少し分けてくれないか、と周りの人に話しかければ、助けてもらえることもあります。実は案外多くの人が「他人の役に立ちたい」という願望を持っているので、何の見返りもない状態でも、相手が誠意を持って接してくれるのであれば多少融通できないか検討してくれたりします。問題は誠意のなさ、他者性の欠如、視野狭窄に起因することがほとんどなのです。

相手の事情を考えずに食料を分けるように(時にはあたかもそれが当然であるような態度で)詰め寄るから承認を得られない。得られないからより必死になって玉砕アタックを繰り返しているうちに(他人は敵ではないのに……)周りに人が全くいなくなるというのがいつも嫌われてしまう人によくあるパターンです。

あまりに救いのない理由に嫌気がさすかもしれません。あるいはこの世に一切の救いはないと失望の淵で最後の望みが断絶され、絶望絶無の業火に焼かれ悶え苦しむでしょうか。大丈夫です。そういった地獄のような失望をくぐり抜け、業火に焼かれることで芽生えるのが本当の他者性ですから、もしあなたが上記のような感情に陥った場合、確実にステップアップをしているはずです。

・最もシンプルなこの世の法則「嫌われることをすると嫌われる」


私はツイッターなどで何度か

「他人に嫌われることをすると、なんと嫌われます」

という旨の発信をしているのですが、驚くべきことに、毎回「知らなかった」「早く気がつきたかった」などの反応があります。嫌われることをすると嫌われるのは当たり前なのに、一体どうして気がつかなくなってしまうのでしょうか。

・自分だけは「例外」


 全ての人間に絶対に共通している点があります。それは、「自分は自分」という事実です。何を言っているんだと思われるかもしれませんが、これを意外にも多くの人が普段見逃しているのです。誰にとっても必ず自分は特別です。複雑な理由はありません。自分だからです。生まれてから死ぬまで絶対に自分は自分から切り離すことができず、「自分」という物理的な制約上で生きていくしかありません。実は、「自分が自分である」ということは日頃からよく理解できていても、「他人も他人にとっての自分である」という視点を失ってしまっている人が多いのです。SNSもそういった視点の欠如の原因の一つになっているのは確かでしょう。常に自分が主人公になった世界で自分以外の人が自分を見ている(ような錯覚に陥る)構造になっているのですから。実は他人も他人のタイムラインの中では自分が主人公になった世界を覗き込んでいます。あなたと全く同じなのです。


嫌われることをしてしまっている人は、「どうして自分の要望を受け入れてもらえないのだろう、ほかならぬ自分が申している特別な要望なのに」と考えていたりします。このような視点では、他人に迷惑をかけているどころか、特別な自分なのに無視されている、自分は理不尽で可哀想な被害者という認識になってしまうのです。そうなってしまうと、ますます他人との視点のギャップが大きくなりますし、そうなればそうなる程誰も何も言わずにそっと離れていくので虚無の荒野で自我の咆哮を上げたまま悶え苦しみ果てることになります。

コラム:おめでたい方

ちなみにこの、「他人にとっても自分は自分である」という感覚は、社会から疎外されにくいほど希薄になりやすいものです。つまり、例えば異性愛者の方が同性愛者に比べて自分の感覚は当たり前のものだと思い込めてしまえるチャンスが多いので、それほどおめでたい脳みそを産まれ持たなくとも自分以外がの人間が意思や権利を持たないNPC(ノンプレイヤーキャラクター)に見えてしまいやすいということです。先日、有名な寺の近くにある感じのいい蕎麦屋に入ったら、雰囲気がいいにも関わらず店内がガラガラで不思議に感じたことがありました。が、すぐに理由が判明しました。店主(50代くらいの男性)が妻やアルバイトの女子大学生に卑屈な嫌味を言いつづけているのです。発言は「テメー。気が利かねえな。コラァ」みたいな感じで特に内容はありません。客には一応親切な感じなのですが。この店主の場合、個人で店をやっている経営者、定年前(年功序列で最も上の立場)の男性、他の従業員が全員女性しかいない、観光地の近くにあるので最悪でも経営が成り立ってしまう、などの条件がおめでたさと相まって、最低の自己愛オリンピックが開催されてしまったものと思われます。とはいえどんな属性であれ、おめでたさが満開になってしまう人間はいますし、その逆も当然ありますからなんの目安にもなりませんが。

・「承認」と「信用」の違い


他人が他人にとっては自分であるということが理解できたとして、次に問題になってくるのが、一体この掛け替えのない特別な自分は何を欲しがっているのか、という議題です。「承認」というと、何だかちょっと分かったような気もしてきますが、分かったようで全然よく分かりません。

ここまでして、一体なにが欲しいのか。

それは、自分がここにいてもよいという実感、周りの人に許されているという感覚、です。まとめると「存在してOK感」といった感じでしょうか。世間では「自己肯定感」という言葉がよく用いられますが、自己肯定感という言葉は社会の中で極めて政治的な文脈を背負っているのでここでは一旦忘れてください。とにかく、存在してOKの感じが獲得できればいいのです。

しかし、一体どうやって?

単純な話、褒めてもらえたり賞賛をされると、人は「存在してOK」というような気がしてきます。次第にわざわざ褒められなくても、どういった行いによって自分が周りの人の役に立つことができるのか、価値のある仕事や行いができるのか把握できるようになり、内心に価値判断の基準が形成されます。これにより、何も言われなくても安心して社会の中に存在できる物差しを自分の内側に獲得することができるのです。

 ところが、他者性が希薄なまま、自分以外の人間をあたかもディストピアのコンビニ店員のような、意思のないロボットじみた存在、主人公(自分)を支える世界の仕組みの一部のように感じて生きていると

・どれだけ承認をされても何だか自信が持てない
・もっともっと承認されたい
・常に褒めてくれる人が自分の隣にいて欲しい

という心情になってしまうことがあるのです。考えてみれば当然、他人がドラゴンクエストの村人のようなNPCに見えていたら、どれだけ褒められても満ち足りることはありません。他人の承認を渇望している人は、自分で自分に承認を与えるように舵取りをすべきだろうという風潮があります。確かに、それはそうなのですが、人間は社会的な生き物なので、自分で自分に承認を与えるにしても、ベースには他者から受けられるであろう承認への信頼が必要です。

自分に自信がない人ほど自分が大好きで、ある側面では過剰に自信を抱えており、自分自身に固執しすぎている傾向があります。一見矛盾しているように見えますが、他者性が欠如しているから他者から得られる承認への信頼がなく、自分だけがプレイヤーであり主人公の世界の中心で他者からの承認を渇望して叫んでいるので、自分自身の価値が無限であり同時に無でもあるのです。自分しかユーザーがいないメルカリで、100億円で古着を出品している状態とでも言ったらいいのでしょうか。確かにその古着は無価値であるし、同時に100億円でもあるのです。誰かに落札される可能性がないだけで。

 この問題をより複雑にしているのがSNSによる自己発信です。 SNS上では各自が主人公として振る舞い続けるのが正解ですから、上記のような態度の問題点が克明にならないまま人生を展開させていくことが可能です。あまりにも社会適応しすぎてしまうのもそれはそれで病的なので、ある程度自分が主人公の世界を展開させていくのは実は健全な行為でもあるのですが、度が過ぎて自閉的(自己愛以外に無関心)な領域に陥ってしまうと、自分への反応以外への外部に対して極端に鈍感になっていく恐れがあります。そうなると、ある程度健全に生きている人の目には、自分語りとそれに対するリアクションの押収とでしか世界と関われない極めてやばい人、に見えてしまうのですが、本人的には、それはそれで自分に見えている条件の中でできうる限り社会との関わりを求めている、とも言えます。

・「承認」よりも「信用」

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