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ネタバレするのは「世界」ではなく「自分」 (『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』で描かれていた絶望とはなんなのか)

・『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』で描かれていた絶望とはなんなのか

 話題になっている本作ですが、筆者もタイトルが気になったので公開日に観ました。一見シンプルなメッセージが力強く打ち出されている本作ですが、なんだかわかるようでわからない部分もあります。それが主人公エヴリンの娘ジョイが抱いていた<絶望>とは具体的にどんなものなのか、何が原因でどう絶望しているのかという点です。「全てをベーグルの上に乗せてしまった」とは何を意味するのか。実は、筆者はこの絶望に関して一つの解釈(自分なりの読み)を持っています。

 それは、一言で言ってしまえば「世界の全てがネタバレし終わってしまった絶望感」です。より詳細に申し上げるならば、「実際に世界にあふれているありとあらゆる事象を味わうより以前に、それに対して自分がどのような態度をとるべきか把握してしまったせいで、新しく出会える可能性を有したものがこの世のどこにもない状態に陥ってしまった(ような気がしている)絶望感」と言えるでしょうか。詳しく述べていきます。

・「ネタバレ」で失われるものは一体なんなのか


 例えば、話題になりそうな新作映画が公開された時に、「ネタバレしたくない」という感覚を持つ人は結構多いんじゃないかと思います。ネタバレって確かに避けたい気もしますが、同時に「バレたところでなんなの?」という心情もあります。
 どちらの感情も並列してありますが、「ネタバレ」の前提として共有されている「隠された情報を知ることが鑑賞体験の中心にある」という考え方には納得できません。なぜならば、当たり前ですが、情報を知ることと(仮想的にだが)体験して味わうことは全く別の話だからです。

 例えば『タイタニック』について、船が沈没するという結末は周知の事実です。同様にハリーポッターが実は魔法使いであるとか『E.T.』はパッケージでそのシーンが描かれているように最終的に異種間の友情を築き上げて元の星に帰っていくとか『マトリックス』は仮想現実の話だとか、そういう一般的によく知られた事前の知識が決定的に作品の体験の質を大きく変えてしまうとはあまり考えられません。落語は誰でも結末を知っている話を話者を変えて何回も聞くものだし、歌舞伎にも何百年も前から公演されている定番のストーリーがあります。事前に知っていることが、だから何?、常に「何?」でしかない。「知る」っていうのは単に「知っただけ」であって、それでなにか自分の根幹が揺り動かされたり変化することはそうありません。ネタバレで映画が楽しめなくなるとしたら、それは極端なことを言ってしまえば、コース料理を楽しめるレストランでテーブルの上に置かれた「お品書き」を見て

「ネタバレしてしまった。もう料理を純粋な気持ちでお料理を楽しめない」

と言っているのとあんまり変わらないような気もします。

 確かに、結末を知ってしまうことが鑑賞体験の質を決定的に変えてしまう作品もありますし、それについては一定の用心が必要です。しかし、ネタバレに対する危惧がある部分では実際に起こっている出来事よりも過剰に深刻に、重々しく、それどころか一線を超えた決定的なものとして扱われているのではないか。

・本当はなにもバレていない(と分かっていても)

 この、あらすじの情報が入ってきてしまっただけで重要なものが失われたように感じて落胆する現象は、しかしある側面を加味して考えると納得ができます。それは話題の新作映画や話題の配信ドラマが日を追うごとに「どう扱うものなのか」という二次情報に覆われた状態で流通するようになるという側面です。この「扱われ方」は話者の属性を暗にタグ付けするものとして機能するので、

・どの程度面白がると(あるいは面白がらないと)「ツウ」とされるのか
・作中で扱われる問題をどの程度深刻に捉えて発信するのが正解か
・どのような立場(人種、性別、政治的態度)で鑑賞するべきか
・肯定的なのか、あるいは否定的なのか(実際は人間の感情はこのどちらかに限定されて現れることはそうない)

といった発信者の立場を表明する題材、もしくはSNS上の関係資本を補強する題材として流通する側面があります。これは話題性や「旬」が資源として扱われるSNSの特性上避けて通るのはなかなか困難です。なぜならば「多くを語らない」という態度にもそれはそれで何かしらの意味が生じてきてしまうからです。

 つまり「ネタバレ」を避けようとする時に触れたくないものの核心は情報自体というよりもそれにまつわる二次情報、つまり作品の取り扱われ方についてのネット上での大まかな合意や、それを受けて取るべき態度、味わうべき切り口などの鑑賞者の態度にまつわる部分だと考えた方が現実的なんじゃないかと筆者としては思うのです。

 このように仮定した時に、ものすごく絶望的で、同時にWi-fiのように平然と大気中を漂っている巨大な諦めの感覚の実態が見えてきます。

・絶望のあらましについて

*********

 気がついたときに、それは既に起こっている。

 起こっているどころか、すでにそれは私に成り代わって平然としている。

 私の人格を私以外のものが成している。
 それはひどくむなしいことだから、今ここにいる私が私だと証明しようとあがけばあがくほど、より一層ここにいる私が置き去りになる。
 私が注目をされればされるほど、ここにいない、誰なのか何なのかわからない、私らしきものが私ということになっていく。

 例えば新作映画が公開されたときに「ネタバレ」を避けるべきだという風潮がある。そりゃあそうだ。結末がわかっている話を見たってしかたがないから。しかし、作中で起こる出来事について、あらゆる情報を目に入れないように気をつけていたところで、日増しに「それ以外」のなにかが決定的に私の楽しみを奪っていくような喪失感を覚えることがある。それは一体なんなのか。

「この作品はこういう楽しみ方をするものだ」

という風潮がある。それは私の前に立っている。

 私の知らないところで私の認識が準備されている。それはある程度の精度で正しい。むしろ、私が考えた理想の私自身以上に用意された理想の私の認識は正しいのではないかと思えてくる。実際、そう。態度には一定の「正解」がある。外したら一体どうなるだろう。信用や関係のみならず、もっと多くのもの、具体的には仕事や機会を失うかもしれない。私の行動規範は社会的な報酬によってあらかじめ管理されている。だって私の態度の一挙手一投足は常に評価されているのだから。

 ネット上で速やかに進行する合意形成と、あらかじめ踏まえた楽しみ方のひな形を踏まえた上でもう少しだけ気の利いたことを申し上げようとする、なんというか儚くて貧しい努力。そういう世論形成の空気が時間とともに私に浸透する。気がついたら、内容は知らないのに肝心な部分がもう「バレ」ている。ような錯覚に陥る。本当のところはなにひとつ「バレ」てなんかいないのに。(だって、私の心は誰がなんといったところで私にしかわかりようがないんだから)

 ネットの風潮って、まぁ大体そんな感じ。

 抜群に目新しくはないし、評論家ほど専門的で気の利いたことが言えるわけでもないんだけど、その辺の誰かの集めたありきたりな「いいね」よりは価値がある(きっとあるはずだ)、少しは「オッ」と感心してもらえるくらいの意見よりちょっとくらいはいい意見を述べたい。ささやかでいいから。自分が自分であることを、肩幅より少し狭いくらいに身をすぼめて立っていられる気分になるくらいの意見を。それより少しだけマシな意見を。

 そう思うとき、“そこ”にいる自分は、すでに抱いている。いま“ここ"にいる私を置き去りにして、気の利いた感想に対する気の利いた感想を気の利いた時間効率で探し始めている。私は置き去りにされているし、置き去りにされている恐怖からますます遠く離れていく。

絶望である。だったら宇宙が生まれる前の真空を漂うエネルギー波にでもなった方がいくらかマシかもしれない。いま“ここ"には誰もいない。自分の「ネタバレ」が終わっているから。気を利かせようとすればするほどパターン化の罠にはまる。人類の知的活動の全てをそっくり“そこ”に置き換えようとする親切なシステムの総体は、あなたが他の人よりも少しだけ気の利いたことを言おうとするのを喜んで待っている。今や世の中のほとんどが“そこ”の話をしているように思えるし、自分だってそうしなければどこにも繋がっていない真っ暗な宙をただよっているような気がしてしまう。

そんなことないのに

そんなことないのに

そんなことはないはずなのに

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