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ファッションショーとは、バレていないだけの「徒歩」

・態度としての「バカ」と「かしこ」


 今さら気がついたんだけど、かしこい人は余計なことを言わない。なにか思うところがあっても「私は今思うところがあります」といった、すごい満面の顔もしない。そんなことはわざわざ気がつくようなことではないのかもしれないが、突然気がついてしまった。途端に高い位置から自分を見下ろしているような気分になって、(自分自身の)盲目的ながんばりの具合に、モツが風に晒されているような感じがした。知らない手が私の内部に触れている。どんなときでも思ったことは手を尽くして伝わるように伝えるのが人としての誠意だと思い込んでしまうんだけど、当然常にそうではない。そういうことに気がついては次の瞬間に記憶を喪失して余計なことを言ってしまう。

 ここで言う「バカ」とか「かしこ」とは、個人の有する能力の話ではなくて、ある場面における態度のことを示している。つまり、バカとは「不合理な関心事に熱心に取り組みすぎた結果、現実的な利得を度外視した状態にあり続ける人」のことで、かしこい人とは「総合的な判断力は高く独自の意見があるにも関わらず、余計なことを言わない状態にある人」のことだ。この意味なら、例えば田舎者っぽい人と都会的な感じの人と言った方が語弊がないかもしれない。しかしここでは、ひとつの特別な熱情を持って「バカ」「かしこ」という括りでどうしても話を進めたい。

 私は態度の面でバカ丸出しなのでわざわざ言わなくてもいい余計なひとことを言ってしまうことがある。そもそも「黙る」という選択の余地に気がついていない瞬間が多い。意思のある黙りというものが、光の中鮮烈に飛来したアダムスキー型UFOのように思える。黙ることができる人は迂闊な思い上がりで口をついた言葉がボロボロこぼれ出て全く訳のわからない地点で聴衆が呆然としているということは当然ない。黙っているときに、そうなる必然性があるのがわかって黙っているので「黙っている」ことが周囲にバレない。



これはパリコレと同じ原理なんだよ。


・ファッションモデルがやっていることは帰宅部と同じ「徒歩」


 ファッションショーの映像を観ると

「全員歩いているだけなのに大丈夫かな」

と思えてしかたがない側面がある。世界的なコレクションに出演しているスーパーモデルの方は「歩いていない感じを出して歩く技術」が圧倒的に高いんだけど、技術が高すぎて肉体的な真実がつまびらかになっているので逆に歩きバレしてしまいそうである。そういうただ空気を読む努力のみで成立している現場の臨場の気配にかなりの危険を感じて興奮が鳴り止まなくなる。
 この人達は歩いているだけなのに、ただ歩いている事実が誰にもバレていない。服でも音楽でもない。「歩いていることがバレたら全てが終わり」という大胆な暗黙知がショーという場面の緊張を成立させている。

 ファッションショーの徒歩労働業従事者(徒歩土工)には細長い人間が集まっているけど、歩きバレさえしなければどんな体型でも構わないんではないだろうか。ただ肉感がない方が全体に「どっこいしょ感」が出なくて歩きバレしにくいからそういう人が集まっているんではないか。観客も「ここでは沢山の高身長の人物が歩いているな」という顔はしない。もっと中空の夢だけを見ている。「今見るべき中空の夢」だけを集中して見ている。ここで見られる、幻想への選択的な態度は人生にとって極めてバカではないと思う。

 私も以前徒歩労働に従事したことがある。歩いている間「今自分は歩いている。観客は、私が歩いていないものとして見ているけど、歩いているし棒を二本交互に出して前進している。動作全体から前に進む魂胆が見え見えになっている」という観念がずっと頭から離れなかった。そのせいでオシャレの先端に近い服を着ているのに精神面ではすごく裸の感じがした。こういうあるひとつの幻想に対する集中的でない振る舞いが、人生の中で現れる態度としてのバカだと思う。

  SNSで「本日歩かせて頂きました」と発信しているモデルの人を見て、(勝手に)強い親近感を覚えたこともある。「歩き」という最重要機密を自らバラしてしまっているが、いいのか。プロなのに。大丈夫か。風向きを察知する能力への要請が強まる一方のこの世であなたはやっていけるんですか? 私はこんなにもバカなあなたと手を取り笑い合いたい。もしもどこかで会うことがあったら、そのときは仲良くしてください。あなたは私と仲良くしたくはない可能性が高い気はしますが。

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