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水野ダイアリー 6月1日〜30日

https://note.com/320_42/m/mf47e4c43860e

6月1日 「グレーゾーン決意」
6月2日 「バナナの不味さについて真剣に考える会」
6月3日 「カルトの野菜」
6月4日 「ちょうどいい怪しさ」
6月5日 「センサー」
6月6日 「得=損」
6月7日 「あってますか?」
6月8日 「ヨガバレ」
6月9日 「忌み所」
6月10日 「※ない」
6月11日 「水晶玉」
6月12日 「度を越したラブラブ」
6月13日 「そこじゃない」
6月14日 「ホームセンター水野」
6月15日 「OK!」
6月16日 「ものがいい」
6月17日 「度外視」
6月18日 「絶対に軽量化したい水野」
6月19日 「絶対に登りたい登山家」
6月20日 「底力」
6月21日 「コント・最高の相性」
6月22日 「ヤマジュン味」
6月23日 「工藤新一感」
6月24日 「まずい日本酒」
6月25日 「ビジュアル系のベテラン」
6月26日 「バイキング」
6月27日
 「無音で」
6月28日 「実力の発揮」
6月29日 
「手法」
6月30日 「秘伝のタレ」

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6月1日 「グレーゾーン決意」

 夏が来ると、かつて自分が脱毛したことを思い出す。質実剛健に定評のあるクリニックで都度払いの医療脱毛を部位ごとに1~2回した。もともと体毛がかなり薄かったので、これだけでほぼ全身に毛がない状態になった。現状特に気にかかることはないのだが、あと一回脱毛をすれば体毛が全くない人になれるはずだ。ほぼないとはいえ、若干はある。ほぼないといえばないし、あるといえばある。そういうグレーゾーン状態である。しかも全身が。もう一度脱毛に行って体毛がない状態にしたい欲望もあるけど、予約をして病院に行き3時間痛みを伴うレーザーを照射され3万円支払うにはかなりの動機が必要だ。そこまでの動機はない。自分の毛の生えに対する感性になにか突然の変化が生じるということも今後ないだろうから、不条理に均衡してしまった私の脱毛動機と現状の脱毛状況と共にグレーゾーンの人生をやっていくしかない。人生の大半はこのようなグレーゾーン動機の均衡によって決定しているんじゃないかと思う。

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6月2日 「バナナの不味さについて真剣に考える会」

 フルーツサンデーを注文したら、私が食べ物の中で唯一嫌いなバナナが丸ごと、ではないけど丸ごとの二分の一入っていた(内心の感じ方としてはほぼ「丸ごと」だった)。痛恨の失策。バナナと私との不本意な出会いは、常に店側の「良かれ」という気持ちに端を発している。言わば当事者は喜んでいないお見合い。バナナの側の気持ちは分からないが、一般的には、やはり一つの生命体としては食べられないでいた方が嬉しい可能性が高い。せっかくなので、なぜこうもバナナが嫌いなのか、バナナには悪いがじっくり味わった上で考えてみることにした。今までの人生でバナナをしっかり味わったことなんてないから、ここでなにか突破口のようなものを見いだせるかもしれない。

 まず最初に、キウイのような酸味が、ギリギリまで鼻腔をくすぐりながら、決定打をついてこない。判然としない。甘いのか、酸っぱいのか。この時点では味の手札をオープンしてこないバナナにやきもきする。追って、タロイモのような、甘酒のような、良心的なんだけど気を使わずにはいられない地元の老人宅に招かれてしまった感じのとりとめのない甘さが口いっぱいに広がり放題広がる。こちらが気を使っているうちに、ラストノートにすごくよく言えばマンゴー(ほぼお世辞)、悪く言ったらドリアンのクセを限りなく薄めたような、ケジメのない南国の亡霊がいつまでも居座る。振り返ってみると、何がメインなのか分からない。豆腐と餅ともやしとセロリが具材の鍋料理(胡麻だれ)を食べたかのような印象。どこか一つキッチリ仕事を決めてくれる味があれば、こうもチグハグにならなかったろうに、それがないから東映まんがまつりのポスターのような、全体的に収まりのつかない、なんともはがゆいフレーバーになっている。

 しかしバナナは人気が高い。しかもりんごくらい無難で親切な味の果物だと考えられている。だからサービスのつもりでメニュー表の写真では予告されずに無関係な場所にガンガン入ってくる。追加してるんだからいいでしょう。心ばかりですといった。これは自分からしたら、いい方向に転がっていないフランクさでしかない。あくまで想像にすぎないが、バナナってもしかして、早く食べれば食べるほど美味しくなるのかもしれない。私は食べるのが極度に遅いから、バナナの複雑な味わいもまた一つ一つ丁寧に味わってしまうが、そういうことではないのかもしれない。いわばラーメンのように、全体の要素を渾然一体にして食べるのがバナナの正攻法なのでは。今の私は、いわばとんこつラーメンの臭みだけを丁寧に味わっている状態と考えると、ひとつ見えてくるものがある。バナナの形状、つまり地の利としての食べやすさ、持ちやすさ、驚きのハンディ性能、柔らかく、人間の口のサイズ感を知っているとしか思えない形状、安心感があり目に優しいアイボリーカラー。これら全ては、バナナが実は、パブリックイメージに反してスピード的な属性を秘めている査証なのではないか。

 水風呂にジワジワ入った方がキツイのと同じで、一気に食べてしまえばバナナの要素の噛み合わなさは問題にならないのかもしれない。というより、食べる側で噛み合わせを作りに行く食べ物なのかもしれない。そう考えると、猫舌は飲む人の口や舌遣いの技術に問題があるように、バナナの不味さについても私のバナナ食技術に問題があると言えるのかもしれない(バナナまず口)。たしかに、バナナジュースは固形のバナナと比べてあらかじめブレンドされている分、バナナに感じる不味さが減っているように思える。とはいえ、まずいものはまずい。
 これは生まれつきそうだったし、バナナのアンサーも判明しないんだろう。こんなに真剣にバナナを食べてる人もいないだろうし。

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6月3日 「カルトの野菜」

 気がついてしまった。スーパーに売っている野菜が、あんまり好きではない。自分は野菜が好きではないのかと思っていたが、スーパーに売っている野菜の味が全体的に均一でボヤッとしている感じがイヤだったようだ。野生味がなくて食べやすいとも言えるけど、自分の技術ではうまく調理ができない。じゃあ人生の中で最高に美味しかった野菜はなんだろうと思い返して、真っ先に脳裏をよぎったのが、ヤマギシの野菜である。ヤマギシとは。正式名称は、『幸福会ヤマギシ会』という。会がダブっている点が気になる。あのポルポトが実践したことで有名な「原始共産主義」(無所有一体)を旨として、自給自足を営む本格カルト集団のことだ。結構本格派のカルトなので、過去に逮捕者も出ている。私は小一の時にヤマギシの運営する集落に一か月ほど預けられた。その頃は、ヤマギシ会は人畜無害スローライフ集団と思われていたので、私のようにスポット的に自給体験をやらされている小学生はしばしばいた。そこで食べたトマトが、澄んだ山の水と土地のミネラルが脳を揺さぶる感動的味わいだったのをはっきりと記憶している。ヤマギシはカルト集団なので、小学生を管理指導する大人の物腰はかなりおかしかった。得体が知れない薄桃色のジャージを着て虚ろな目をし、常に断言するような物言いをするので会話が会話にならない。こいつの言うことは聞かない方が良さそうだなと現場判断していたが、指導員に

「ここの野菜はスーパーで売っているものと全く違う。一切の調理の必要がない。これを食べていれば、水すら飲む必要がない」

と言われて昼に出された枝つきのトマトを齧ったら、美味しさに関しては本当にそうだった。

本当にそうだから、本当にそうですね、と言ったら指導員はボソボソした喋り方で

「常に正しいので水を飲む必要がない」

と言うのでやはり全く会話にならないのだった。なんというか隅々までよく行き届いている。これで、野菜があんなに感動的なまでに美味しくなければ、カルトにはまらずに済んだ人も大勢いたんじゃないだろうか。美味しいが、美味しいせいで、事態を悪化させている。あまりに美味しかったので、『美味しんぼ』の究極のサラダ(鉢植えのトマト)を食べているシーンを読んだ時も、このトマトを思い出した。性格が従順で外見が可愛いすぎるあまりに、常に殴りの男性に順番待ちをされ続けている人みたいだなと言ったら過激かも知れないが、そういう感じ。そういう感じだ。

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6月4日 「ちょうどいい怪しさ」

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