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イチローはマジで「すべて」が上手い説

イチローは野球が上手いだけなのに「すべて」が上手い雰囲気がある

イチローとたけし(北野武)はある部分が共通していると思う。

それは、いったん思い浮かべるとイチローもたけしも思い浮かべの中でなにかしらの「100」として機能してしまうという点で、さらにその「100」(ある評価基準におけるマックス)と、世の中のある要素を比較をすることで、ある要素が「15」とか「3」とか「マイナス80」であるといったことが判明してくる趣がある。たとえばイチローを「100」とした場合のセブンプレミアムの商品は22〜38くらいかな、と思う一方、たけしを「100」とした場合のそれは大体マイナス30〜80くらいかな、といった方向に思考が遊ぶ。この遊びは、わざわざやりに行っているというよりも、自分の中である程度オートマティックな働きとして作動しているように感じる。あるいは、「比較作用を生じさせる遊び(プレイング可能なゲーム性)自体」がたけしをたけしとして、イチローをイチローとしてあり得させている。

だからイチローとたけしを同時に思い浮かべるのは困難で、無理やり並べるとグレゴリオ暦とユリウス暦で同時に日程調整をしている気分になる。両立しないタイプの「100」というか。なんで両立しないのかというと、たけしが答えのない世界(美しさ、思想、切れ味等)の「100」である一方、イチローは答えがある世界(努力、偏差値、現実から目を逸らしてない度)の「100」をやっているからなんだと思う。大谷翔平にはこの「100」っぽさを全く感じない。どれだけ有名になっても(もうなっている)「しょうへい」とか「ショーへー」にはなっていかないんだろうなと信じられる。実力がありすぎるだけで普遍性は全くないというか。遊びがなというか。ものすごく努力をされている方にこんな言い方はどうかとも思うが、3億円の宝くじが当たった人にしか見えないというか(イチローの努力は「努力」に見える《努力が「努力」に見えているという事態は、実は”おもしろい”ことなのだと気付かされる》のに、大谷翔平の努力は「単に努力ができる才能、環境を引き当てた人」に見える)。そういう意味で、私は大谷翔平ってすごいだけでおもしろくないと感じる。大谷翔平に生まれただけの人だな、という感じがある。無駄と葛藤がないようにも感じる。荒涼としている。こんなにおもしろ要素がない人(ただそうである事実の地平に忽然と現れ、起立する人。それを難なくこなせるという人)を目標に据えて努力をするように言われる小学生はなんだか気の毒だと思う。大谷翔平はただ大谷翔平に生まれているだけで、自分が大谷翔平に生まれてしまった事態には直面していないというか。確かに、そんなものは直面しなくてもいい。一つも間違いがない。それは、大谷翔平が行使すべき自由だと思う。何の葛藤もなく、葛藤の方も大谷翔平をやっていないように見える。令和っぽい。だから興味が持てない。ニュースで大谷翔平の話題で盛り上がっているのを見かけるたび「人間という存在はこの世に生まれ、この世を通過して消えていくだけの透明な生き物に過ぎないのかもしれない」という気がして、むなしく、哀しい気分に一瞬なる。一瞬だけなってすぐゼロにもどる。その感じもなんだかむなしい。私が大谷翔平に感じることは「純度の高い通過」だ。もちろん、こんな考え方をする私の方が明らかに間違っているので世の中の人々には大谷翔平のまちがいなさが多く満喫してほしいと思う(もうされているのでよかった)。


たけしが広告をやっているのを見ると、「たけし」以外の完全放棄をやっていて爽快だな、と思える。これは、「100」だからできる芸当だと感じる。

(2022年 「LOEWE」広告キャンペーン)

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