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火葬のアンチをやったって構わないし、腐乱死体のアンチに必ずしもなる必要はない。

孤独死がテーマの話になると、

「自分の体が誰にも発見されずに腐乱死体になるのはいやだ」

という論点に大体なる。でも、私は昔から自分の体が腐乱死体になった場面を想像して心を落ち着かせるということをやっていたので、嫌どころかむしろ落ち着く。これは非常識な意見だし、側から見たら厨二病のような痛々しさがある発想と思われるので、口に出しては言わない。こうなっているときの自分は、腐乱という事態そのものに直面して落ち着いているというよりは、ジワジワ積み重ねた慣習によって形成された精神の鋳型によって、うなぎ屋の前を通りがかった人くらいの温度でうなぎそのものの実態には触れずに、「パブロフ落ち着き」のフレーバーを嗅いでいるフシがある。

サコッシュから手榴弾を取り出すように、生活実感の懐からサッと出せるヤバさとして「腐乱死体」というワードを使っている人だって、腐乱死体そのものを思い浮かべて言っているわけではないだろう。言葉の周囲に漂っている、なんだか極めて恐ろしい、ふだん隠蔽している生命の歯槽膿漏部分のフタを見ないままズラして、吹き込んでくる生々しい空気の温度を耳の付け根あたりで汲み取って束の間ゾクゾクゾワゾワしてみせるといった、エンターテイメント的な向きもすこし感じる。ここでは「腐乱死体」というワードのzipフォルダが、圧縮されたまま解凍されずに、出力側ではラブホテル街的なコワたのし要素として、入力側では死後の社会性からの逸脱というドリームを遠赤外線的に放つホッコリ装置として機能をしている。

具体を一点も経由せず、なんの現実味も予感も現れないままに、こうも多角的な情緒の押しボタン装置になっている腐乱死体という言葉がなんだかおもしろい。

なぜ腐乱死体になっている状態を思い浮かべると落ち着くのか。
全く理解できない人もいると思うので説明をすると、私はまず火葬がこわい。火葬という死後燃やされるシステムそのものがこわいのではなく、死んだ後でもかなり、というか、人生MAXレベルの社交的時空間に巻き込まれるシチュエーションが待ち構えているという既定路線の現実味が、改めて意識されてしまって、こわい。死んだら死ねるのかと思いきや、死んだあとの方が人間はいよいよめんどうくさい。手続きや社交といったあらゆる煩雑が死を頂点に爆砕し、流れ難く万人に降り注ぐ。やるのは自分ではないとは言え、死んだらもうさっさと死にたいのに全然そうでもないらしい。そういった、死んでなお(死んでいるからこそ)社会的な慣習にがんじがらめになっていく現実を思うと、それに達する以前の生存にまで社会というシステムのめんどうが滲んでくるようで、なんだか正気を保ちきれない。

自分の死体を目の前にして、酒や談笑が酌み交わされ、かなしさと励ましの塩梅がちょうどいいお悔やみの言葉が申し上げられ、出棺を見送られ、その間ずっと悲しすぎないが楽しすぎないちょうどいいコメントをされ続け、神妙な顔つきで骨を拾われツボに収められる情景をしみじみ想像してみると、つかれてきてしまうというか。そこまでしていただく必要はぜんぜんないですよ。海にドボンでOK! 葬式はやっている側がやりたくてやっているだけだから、死者の意見はそんなに重要じゃないのかもしれない。というか、お前の葬式なんか誰もやらねーよ、という感じになってリアルに保健所が処理をするのかもしれない。でもそうじゃない。

これから実際にどうなるのか、という将来的な見通しの話ではなくて、常にそうなる可能性に接続されたままで生きていかざるを得ないという現実感覚の、そこらじゅうにほころびがいくつもあるにも関わらず、圧倒的で頑迷で、変わり続けはするのだが消えることはないという社会秩序の強靭さへの感受性の受容体部分が、排水溝の目に絡みつく毛のようになにかでびっしり詰まっている感、があるのをどうしたらいい。

死んでも腐る心配はない。社会的に大丈夫な手段で処理をされて、社会的に大丈夫な範疇で死が認識をされて、全ては大丈夫なエリアからはみ出さないように処理をされますってことを考えてしまうと、それら一体を覆い尽くしている「強さ」にあてられて、立っていられない感じがしてきちゃうって言いますか。私はせっかく死ぬときがきたんだったら、誰にも見られていないところで、どこまでがそうだったのかわからなくなるくらいに一度くらいは腐り倒してみたい。周囲に生えている木とか草に「ラッキー♪」とか思われてみたい。そうなった死体が業者や保健所に多大なる迷惑をかけるかもしれないという発想は、やはり社会の強靭さの方面にそうとうのチューニングをした発想で、自然分解を視野に入れると、腐乱死体がやっていることの方がよっぽどエコである。火葬で排出されるCO2は削減しなくてもいいのかよ。


やりたくてやった場合もそうでない腐乱死体もたのしい肥料


しかし火葬は、高温多湿な環境で平野部に人口が密集した国土に実によく適した埋葬方法だと言えるし、穢れを気にしたり清潔を重視する文化的風習も感染症が蔓延しやすい環境条件によって発達したものなんじゃないかと思えるし、そういう文化慣習的な「ねんごろ」に背いた考えが人にもたらす特有のバッドな気分っていうのはあると思う。特に人口が過密している都市部では、感染症を懸念せずに死体を腐らせておくだけの空間的な余裕なんかあるわけない。国土の7割を占める山林のいい感じのエリアに、埋葬ヘリで死体をドロップしてくれるサービスがあったらいいかもしれない。しかし、そういうエリアだって私有地だったら怒られるだろうし、現実問題としてはやっぱり迷惑でしかない。死後、

「神聖な国産松茸の収穫エリアがお前の腐乱死体のせいで台無しだ!」

とか言われてしまったら、かなり成仏に支障をきたしそうだ。せっかく腐敗が進行しているのに、来てよかったかわからないパーティー参加してしまった人みたいにになるくらいなら、焼いちゃった方が、もういい。合理的で、清潔で、経済的で、話が早い。やっぱり死後腐乱死体になっていくっていうのは、夢のまた夢って感じだな。私も私で腐乱死体(が草木などに得をさせる想像力)にホッコリを得る一方で、人々ができる限り清潔で安全に生活できる環境が維持されていてほしいとも思う。だから想像は想像として現実と接続されていかないエリアにある。現実味との接続がないせいで余計にホッコリの深度は増す。


「孤独死」というテーマでつらさが語られるときに、場の主役として想定されているのは「迷惑」(をかけるかどうかという基準)なんだと思う。なぜならば、「迷惑」が今日日の個人と社会のつながりを担保するほとんど唯一の回路だから。

社会に迷惑をかける可能性が完全にゼロだと生産人口として数字の上では数え上げられるだけの透明人間になってしまうし、だからといって迷惑をかけすぎるとシンプルに嫌われる。腐乱死体とは、情状酌量の余地がある「迷惑」だから、迷惑なんだけど嫌われすぎない、むしろ対策を講じている姿勢を見せることによってプラスアルファの印象を持ってもらえる可能性すらあるという、現代社会における迷惑の大トロ、ボーナス迷惑みたいなものなんじゃないか。だから多くの人が一度は自分が腐乱死体になった姿を想像してみるんじゃないか。それは、夢を見ているとも言える。(悲しすぎるが)

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