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お米の計量カップで人生のアンラッキーを測定する「日の丸弁当理論」

・突然のスプラッシュマウンテン


 原因はわからないのですが、最近とつぜん現実認識のどこかにナイフで切断面が入ったように、幼少期から今までの人生で起きた艱難辛苦場面の情緒の生絞り果汁がおびただしい物量でもってスプラッシュマウンテンのように猛烈に噴出してくるということが起こりました。普段はあんまりこういうことは起こらないのですが、くだりのジェットコースターに乗り続けているような死への隣接感覚が生じて、そのせいで日ごろ自然にやっていることの9割くらいが実現困難になってしまいました。
 このままでは不便で仕方がないので私は日記を付けているA5の分厚いノートに何が辛かったと思われるのか、原因はなんなのか、どういった影響が生じたのか、ということをできる限り詳しく、淡々と余計な描写を付け加えずにひたすら筆記するということを行ないました。大量に書いたところでだいぶ精神状態に調和が取れてきて、冷静にものを考えられるようになったのですが、冷静になった状態でノートに書いたことを改めて見た結果、私はこのように思いました。

「この内容を私が人に伝えるとしたら、アンラッキーの6字で済ませて構わない」

・選択的ラッキー再取り込み阻害論こと日の丸弁当理論


 数万字分の淡々としたでき事の記述を逐一丁寧に伝えようとするよりも、むしろ開き直って

「アンラッキーでして」

と一言で言ってしまった方が人生が高密度で圧縮されている分、かえって情緒の面では伝わるもの(味わい)が多いかもしれないと思ったのです。もちろん自分の頭を整理するために書いたので書いたこと自体には大いに意味があったのですが。というよりも「要するに、これってあるいは一概にアンラッキーと言ってしまうこともできる」と認識できるようになった状況に意味があると言いますか。私は普段、こうやって精神衛生を保っているのだなということが確認できた点に収穫があったのです。下図をご覧ください。

(日の丸弁当理論)

 これは、日ごろ私の精神衛生を保っている現実認識の一端を図にしたものです。なにをしているかというと、現実的に起こりうる全ての事柄や、あるいは自分が備えている特性を「ラッキー」「アンラッキー」「その他」に分類し、「アンラッキー」部分に関しては日の丸弁当におけるお米部分のようなものだと捉えることでさほど気にならなくなっている(気にならない環境を設計している)というものです。
 この現実認識の最も素晴らしい点は、アンラッキーが「特に注目するところのない全体のベース」として存在しているせいで、ラッキーに関してはそれがささやかなものであれ、強くフォーカスされて心中鮮やかに迫り来るうれしさ、よろこびとして大いに反映されるというポイントです。
 「その他」は「火曜日の午前中にリモート打ち合わせがある」などの、特にラッキーでもアンラッキーでもない(評価的ではなく記述的な)情報です。これをアンラッキーに混ぜてしまうと打合せの存在を忘却し、一生打ち合わせ不可能な人物になってしまうので、やむを得ず「その他」として認識を保持しているといった次第です(この現実認識が実装された22歳時点では「その他」はなかった気がするのでどこかのバージョンアップデートで追加されたのだろうと思われます)。日の丸弁当に例えると、はじの方にある素材が不明な謎漬物、といったところでしょうか。これは事実として実際にある。あとはラッキーばかりが目に入ってくる。(自力で)明るい人生。

 日の丸弁当理論に基づいたラッキーにフォーカスを当てる現実認識をやっていると、もしかしたら人類や一部の類人猿を除いた脳機能が高度には発達していない生物の現実認識ってわりとこれに近い感じかもしれないな、と思われることがあります。なぜならば、人類は理性に基づいて環境を自ら改善する能力があるために今なにがアンラッキーでどう改善すべきかを熱心に注目してる一方、理性を司る生得的モジュールを持たない生物がアンラッキーに強く注目してもそこまでの利益がないからです。
 それよりはラッキー、つまり野良猫であれば毎日15時くらいに公園に餌やりの暇人が出現するな、などの情報に注目していた方が有利なはずです。むかし生類憐れみの令みたいなおふれが出たことがありあましたが、ことによると相対的に見たときにより憐れな側は、アンラッキーばかりに着目しまくっている人類かもしれません。

 仏教にも諦観(ていかん)という概念があります。これは詩人のみつをスタイルで表すと

できないことは
できないから
無理なんだなあ

それを
あらかじめ
見極めておいた方が
全体に納得感が
あるなあ

みずの

みたいなノリのことを言っているんだと思います(多分)。日の丸弁当理論のアンラッキー認識にもこれに近い部分があるように思います。
アンラッキーには目的意識が生じるなどいい材料になる要素もある一方、過剰に注目をし過ぎると人生全体を覆い尽くすアンコントローラブルな困難の数々に絶望、疲弊してしまうことがあるかもしれません。
 日の丸弁当理論ですと、アンラッキーに対して「お米だな」というくらいの無視しすぎず直視もしない、かなりちょうどいい距離感を保てるのでバランス面でこれは攻守絶好ではないかと私は考えております。

・難点:精神崩壊をする必要がある

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