グラグラの積み木の頂点に仕上げの三角だけ乗せようとする行為蔓延しすぎ説

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前回の「ダイエット」と合わせてよく質問されるけど回答しない質問に


「自己肯定感を持ちたい」



というものがあります。
なぜ返信しないのかというと、理由は下記の3点。


⑴自己肯定「感」とは

「自己肯定」であれば理解できるが「肯定感」とはなんなのか理解が難しい。
(↑学術用語としても使われますが定義のブレがすごい)

例えば、自分が知らないだけで「毒の沼地肯定感」や「JR山手線肯定感」なども(言葉になっていないだけで)存在するのかもしれないと考えるとこわい

⑵持ちたい

なるほど。という感じ。持ちたいんだ、そうか。という。それ以上の意見が発生しない。

⑶この問いに回答したことろで

おしっこしてテレビつけたら忘れそうなムード。徒労は避けたい。
なぜおしっこしたら忘れそうなムードなのかというと、問いの立て方があまり上手くいってないからです。
自分にとって何が問題の焦点となるのか考えたことがない、が「よく訓練された消費者」としてより良い曖昧な何か、なんだかわからない素敵なサムシングへの欲求には駆り立てられている。要するにそれは欲求していると同時に「どうでもいい(自分ごとではない)」と思っているということです。


しかし、投げかけられる数が多いのこれには何か共通項を持った悩みの発生源のようなものがありそうです。


回答という形ではなく、なぜそのような質問がなされるのか、またそれはどのようなアプローチで解決が見えてくるものなのか自分なりに考えてみることにします。



別にいいことを言うわけではない(むしろ逆)のでガムとかを噛みながらカジュアルに読んで欲しいのですが、

私自身は個人的に「自己肯定は生きていく為に必要」と考えています。

それは、私が「生きる」の定義を

「条理や損得を超えてそうするしかないという魂のスタイルを自分にとっての現実と認識し優先すること」

としているからです。

極端に言えば

パンチドランカーになったとしても絶対世界選手権に出場したい矢吹丈(あしたのジョー)
賭博が打てなくなっちゃうくらいなら安楽死を選ぶ赤木しげる(天〜昭和通りの快男児〜)

のライフスタイルに支持・賛同する立場ということです。

現実的にはもっと多くのグラデーションがある中で選択をし続けることになるのでしょうが、
少なくとも自身の選択や意思が自分にとって信じられる状態でなければ上記のスタイルは維持できません。


そういった「一定の信頼を置ける自分」という状態を保つために何が必要かという事を考えるとやはりシンプルな結論に達します。

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