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人間関係の基本=つかれさせない

 大学生の時に山口百恵の『プレイバックPart2』という曲を聴いたら

「つかれるわ」


という歌詞が出てきてかなり共感した。曲中では思い上がりや見当違いが甚だしく、大いなる油断をしている人物に向けて放たれる実直な感想である。

 わざわざ共感するようなフレーズではないのかもしれないけど、当時の私にとっては人間関係において最も致命的になるものが、実は「つかれ」であるという的確な事実を言い表しているように思えたのだった。バンドが解散する時に「音楽性の違い」って言うけど、現実問題として、音楽性が違うからってわざわざ解散に至るケースなんて滅多にない話で、そんなの「ファッション性の違いで友達を辞めました」と言ってるくらいのレアケースだと思う。

 じゃあ実際になんでバンドは解散するのかといったら、それはほとんど「つかれ」が原因だと思う。というか、バンドに限らずこの世の「解散」の大半は「つかれ」にあると言っても過言ではないんじゃないだろうか。反対のケースを考えてみて欲しい。どれだけ一緒にいても疲れず、負担やストレスが全くないという人物がいたら。そんな奇跡みたいな人がいたら誰だってすごく大切にするし、解散なんてあり得ない。音楽性が違っても、むしろ音楽性なんてどこにも存在しなかったとしても、大切なキーパーソンとして扱われるだろう(リンゴ・スターや宮崎吾朗が多分これに該当する)。それくらいつかれない人っていうのは貴重だ。実際には他人を一切つかれさせない人なんてほぼ存在しないので「あんまりつかれない」くらいの人でも、すごく人から大切にされる。

 人間は社会的な生物だから基本的には他人と関わっている方が幸せになれる。それでも一人でいる時間を各々設けるのはなんでかというと、それは少なくとも現代の多くの社会では大人は「自分が社会に生きていてもOK!」と思えるだけの価値を作らなければいけないからだ。人間一人が地球の上に「生きてOK!」なだけの家賃分の価値を生み出そうとすると、どうしても人をつかれさせてしまう事になる。なぜなら、価値を作るとは基本的には市場原理に従って他人と競争して勝つ(勝てる範囲で手を打つ)ということだから。日本で生活をしていると、労働者を競争っぽいフィールドから遠ざけてくれる雇用安定のシステムが何重にも張り巡らされて(そして、今となってはその耐用年数がほとんど切れて)いるから、一見あんまり競争していないような、のほほんとした雰囲気も一応ある。それでもやはり競争は起こっている。それどころか、本来競争なんかしなくてもいいようなところにまで実は見えないくらいに細かい競争原理の毛細血管が張り巡らされている。生活が成り立っていると言うことは、要するにそういうことなんである。人と関わるということはその張り巡らされた毛細血管を幾重にもくぐり抜けて接近をするということだから、限度を超えると消耗しすぎてヘトヘトになってしまう。

 行ったことはないけどこれがアメリカだったら、恐ろしく競争原理がバリバリむき出しになっているお国柄だからもう少し人と関わることで発生するつかれに対する意識が自明のものになっているんではないだろうか。日本だと、特につかれていないような(競争をしていないような)雰囲気を醸し出しつつ実際にはつかれているので、どちらがすごいとは言えないけど、これはこれで、やっぱり時としてほとほとつかれる。体の芯が鉛になって沈み込むように、いかんともしがたい、つかれの底なし沼があると思う。

 バンドのように一緒に活動したり、あるいは他人同士が生活や時間を共にするっていうことは、この毛細血管が張り巡らされた領域を共有するってことだから、ある程度はお互いに競争をやめようという不可侵条約が結ばれていないと、難しい。しかし、どれだけミニマルな関係性の中にも残念ながら序列というものはあるので、あまりにも競争から降り過ぎてしまうと関係性の中で尊重してもらえないというジレンマを抱えることになる。だから一定の基準を超えて人と親密になるには、相手が闘争心を破棄しても、同じくらい尊重すべきものとして接するリスペクト精神が必要になる。これができる大人が多数派かというと、残念ながらそうでもない感じなので、異常に雰囲気が悪く序列化された関係の中で各自が自己の尊厳を主張し合いながら過剰な忍耐で折り合いを付けている家庭や職場も結構あると思う。程度の差はあれ、友達の関係でもバイト先でも職場でもこれは同じで、うまくいかなければいかないほど目に見えて全体の雰囲気が悪化して殺伐としてくる。

 よく求人誌に書いてある「アットホームな職場です」という言葉がいまひとつ信じられないのは、本当に他人を他人として尊重できるだけの態度は、本来お互いの精神的な自立からしか生じてこないはずだからで、「アットホーム」とか言ってしまう生暖かな空間にそういった自他の線引きがあるかといったらあんまりなさそうだからである。むしろ、序列化の網の目に織り込まれた各自が音のない緊張感を発しながら、名目上はフレンドリーな雰囲気を演じるという重労働に巻き込まれることになりそうだ。こういった理屈を頭で理解していなくても、読み取ってしまうだけの社会的なセンスが大抵の人間にはある。だから「つかれさすやつ」っていうのが人間関係上一番良くない。空気が読めなくても、自分の社会的な価値に自信がなくても、人を過剰につかれさせんかったら大抵の人間関係ってなんとかなる。

・それは20代後半に起きる

 ところが、この「つかれるかどうか」という価値基準は人間が物心ついた時からそうあるのではなくて、ジワジワそうなっていく、という傾向があるから恐ろしい。子供の頃は、全員が全員絶対に他人をつかれさすだけのエネルギーというか、生命力を発しているし、それはお互い様だし若くて体力もあるから問題にならない。赤ちゃんなんか、特に他人をつかれさす究極の手口で日々の糊口を凌いでいるが、それで文句も言われる所以も全くない。そういうもんだから。成長が目覚ましければ目覚ましいほど、その命が発してくる「つかれ」も瑞々しい感じである。例えるならば、成長真っ盛りの子供が発するつかれは登山のような心地よく爽やかなつかれで、十分成長しきって衰えつつある大人が発するつかれは殺伐の峠を超えた金曜の終電のような最悪のつかれ、それくらいの差があると思う。ボンヤリしていると、自分の発している「つかれ」が気がつかない内に全然爽やかではないものに変化している。それなのに行動様式が若い頃と変わらないままだと周りから人がいなくなる。こういうケースを見かけるたびに私は内心で

「つかれさすな!!」


と思うけど、そもそも「つかれさす」という概念が知られていないのでどうにもならない。

・人をつかれさせん為にどうするか

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