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オシャレとは、ある部分では現実のガン無視



・急に「ドラゴン」を出してくることのヤバさ

今年は辰年です。ドラゴンの年。すごい。ドラゴンイヤーとかいう、急にファンタジージュブナイル小説世界みたいなことを言われている。我々は昔から当然のようにこれをやっているので「ドラゴンイヤーの茹でガエル状態」になっていると思うのですが、それまで牛とかネズミとか言ってたのに急にドラゴンってやばいでしょう。ずっとファンタジーをやっている世界よりも全然やばい。考えてみてください。土瓶蒸しの隣にマンドラゴラが置いてある情景を。回転寿司でツナマヨコーンの次に若返りの桃(金皿)が回ってくるレーンを。そんな状態。ずっとやっているから慣れているだけで、やっていることの内容がやばい。(ハリーポッターの画期的な点は「マジカルの世界」と「嫌すぎる実家の雰囲気」を融合してしまうという着想だと思う。一家総出で嫌がらせをしてくる性格の悪い義実家から魔法の空飛ぶ車で逃げる、そんな夢見せ手口は通常思いつかない)

つまり、本年度は実在する生物と空想上の生物が同じノリで扱われている一風癖のあるイヤーということになります。これって、見る方向を変えればあるいは最高にオシャレな手口だと私は思う。一体、なにを言っているのか。

要するに、この世には

「ないもの」だけで夢を見せようとする手口

がある一方で、

あるもの」と「ないもの」を掛け合わせて夢を見せてくる手口
(うさぎや牛と同列の扱いでドラゴンを持ち出す干支の発想)

もあり、辰年は後者に属するのではないか、ということが言いたいのです。

・「ないもの」で夢を見せてくるマジョリカマジョルカ

前者の「ないもの」だけで夢を見せていく手法としては、資生堂のコスメブランドマジョリカマジョルカのアイシャドウ(「シャドーカスタマイズ」税込 550円)の色に与えられた独自要素が強いネーミングがあるんじゃないかと思います。

例をあげると、

・ゴージャス姉妹
・青いバカンス
・みちしるべ
・恋の達人

などです。これらは「ないけどわかる」というか、「実在はしない(かもしれないけど、やりたいことはすごく伝わってきます。どうもありがとう)」の域をやっているネーミングです。

中には「これは実在すると言えるのではないか」といったネーミングのカラーも混ざっています。例えば

・マサラチャイ
・すずめ
・綿菓子

なんかは「実在するじゃん」と言いたくなるかもしれません。

しかし、これらのネーミングが与えられているシャドウのカラーを見ると、この世に実在する「マサラチャイ(実在)」や「すずめ(実在)」や「綿菓子(実在)」の色とは明らかに異なる色彩、むしろ、実在する“それそのもの”との対応を蔑ろにしたネーミングであることが理解できます。
つまり、これらはあえて「ありそうだけど明らかにこの世のものではない」というラインのドリームセンスを遺憾無く発揮することで「なさで統一された世界」の構築を図っている。

今期(2023年冬)限定カラーの「招待状」なんか、ピンクと青とホワイトの大粒ラメがザクザク入ったゴージャスカラーですからね。実際の 招待状 はオフホワイトであることが大半なのに。あってモスグリーンとか。そういった、いかにも現実らしい現実性をわざとガン無視することでこちらに「味を伝えに来ている」。cool。オシャレ。わかっている。オシャレとは、ある部分では現実のガン無視なんだよ。わかります。

たまにマジョリカマジョルカみたいなことをやろうとして、どうも面白くない「うーんそうですか」という感じになってしまう「しらけコスメ」をネット上で散見することがあるのですが、しらけコスメはこの部分が、味の伝えのマインドがない。ド派手な色のアイシャドウにド派手な名前をつけてしまう。違う、そうじゃないんだ! 
マジョリカマジョルカの世界の地に足をつけて冷静に(?)マジョリカマジョルカの心になった場合は、ド派手なカラーにこそシックな、たとえばゴージャスなレインボーラメにこそ「幕間」とか「憂鬱な午後」と付けてくる等の辣腕・剛腕ネーミング手口を取ってくるんじゃないでしょうか。

こういったネーミングの中に「道路標識」や「お金持ちの家の大理石の床」や「日能研のバッグ」などの社会空間に実在する色彩をそのまま報告してくる系ネーミングがもしあったら全体の雰囲気が崩壊するのは確実と言えます。(※例外あり)

・「あるもの」と「ないもの」を掛け合わせて夢を見せつけてくるサーティワン

一方で、現実もしっかり見せつけながら、その渦中にあり得ないものを投入することで夢を見せる手口を行っているのがサーティワンアイスクリームのフレーバーネームでしょう!!!!!
たとえば「大納言あずき」とか「りんごソルベ」などは、ただ事実を報告しているだけなのに、その並びで突然「ラブポーションサーティワン(※現在は「ラブポーションサーティワン フォーエバー」に改名)」ということを言ってくる。なんですか。もう。
まず、ポーションが実在しない(ゲームの中のアイテムとしてはあるけど薬局で購入できるわけではない)のに、その実在しなさを無視してさらに「ラブポーション」の域に話を進めてしまっている。昨今のオレオレ詐欺のように、夢見せの手口が巧妙化している。そんなことが許されていいのかよ果たして。でも「やってしまっている」。そう、現実は常に許可よりも先にある。つまり神様はなにも禁止してないということなんですよ。これをやっている。サーティワンのもう一つ画期的な点は「31日違う種類のフレーバーが食べられる」という発想を持ち込むことで「ラブポーション」という二重に存在していないものに対してまた別の切り口(1か月の中のある1日という時間軸上の戸籍を与えられることによって)から「存在しかねない余地」を与えている。すばらしい。(どういうすばらしさかというと、メイドカフェでメイドさんが「お会計の国に参ります」とかいう小ボケを言ってくることによって「お会計」という現実味と「メイドさん」というドリームが脳の変な場所でブレンドされて夢心地の総量がむしろ増加する良さに似ている)

このように、あまりにも平然を「ラブポーション」を販売しているので、特にラブポーションサーティワンを食べていない客の中にもジワジワ「ラブポーションっていうものが(あずきやりんごと同じようなノリで)この世には存在しているんだなあ」という気分が生じてくるというか、少なくともサーティワンという世界の範疇には「そういうものがある」と信じられる域まで魂のステージを持っていけるというか。そういうノリを平然と食べている。食べていける。だからサーティワンは味がする。他のアイスより入念に味がする。その味の中にはきっと、夢の味も含まれているんじゃないか。

・ドラゴンイヤーに生きることのすごさ

このように考えると、今年我々がドラゴンイヤーに生きてしまっている事態のやばさも自然理に浮かび上がってきますよね。想像の中にあるものが公共空間に領土を与えられて実在しかねない年に包まれて生きるのだから、思い描いたものはなんだってマジにできるかもしれない。そういう風潮があってこんなのもうワッショイドッコイショガハハ年だなーと思う次第です。ことよろ。

・新年のあいさつっぽい感じのコーナー

明けましておめでとうございます。今年もnoteをバリ×2更新してまいりますのでどうぞよろしくおねがします。自分が死んだらnoteの更新は止まるが、生きている限りは(おそらく)更新され続けると思うと生存している意味が最低一つはあると思えるのでありがとうございます。世の中はおめでとう、とか言っていられるような状況では全くありませんが、人間一人の力ってショボいので自分にできることをやっていくしかない。やっていく中で最大限目指せるマシを志して目の前のことにみじめたらしくむごいほど真剣に取り組むしかない。義務感で定型文みたいなことを言って済ました感じになるくらいなら黙っている方がまだ少しはマシなケースもあると思うしそうでない場合もあると思うし、マシが精一杯の生活なら生活をやっていくしかない。そこにあるマシが仕事でも生存でも慈善活動でもそれが最大限の「マシ」であるものをなんとかやっていくしかない。やりのびるしかない。だから何がどうしたら偉いとかはないと思う一方マシになろうとする気持ちだけは放棄したらいけないとも自分の場合思うのでそこだけは掴んでいたい。握り死んでも。たとえ人間の生理がマシとは相反した方向に疾走するのが概ねだとしても逆方面にガンダしてギリギリ釣り合いをとるマインド握り死ぬ。全人間に優しくしたい。全人間というのは文字通りの全人間であり得たい。だから文脈が伝わらないような場所では余計なことはなるべく、あんまり言わないようにマシをやっぱり考えて書いたり書かなかったりを引き続きします。


付録コーナー:マジョリカマジョルカ側の強弁によって生じるカナリヤ実在性への風評被害について

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